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厚木交響楽団

2009/04/20 23:16
 4月19日、厚木交響楽団の第61回定期演奏会へ行きました。友人大浦君の指揮を久々に見ることができました。演目はヴェルディのオペラからの抜粋とチャイコフスキーの交響曲第5番。彼のフルオーケストラでの生演奏を見るのは実は初めて。更に私の好きなシンフォニーで迎えてくれようというのですから、楽しみでないわけがありません。今回も大浦君にわがままを聞いてもらい、前日のリハーサルから拝聴しました。大ホールの客席に数名しかいない中で演奏を聞けるのはとても贅沢です。表現力を増した大浦君の指揮もさることながら、楽団の方やオペラリリカ八王子合唱団の方の音楽を作り上げる熱意に感動しました。
 前日の18日、大浦君と夕方4時前に小田急本厚木駅にて待ち合せ、厚木文化会館へ移動しました。厚木文化会館はレンガ模様を基調とした立派な外観です。指揮者用に一部屋あてがわれた楽屋に失礼し、大浦君が数か月前に転居したのでその様子を聞いたり、今回の公演の準備具合を聞いたり、チケットに誤字があるというので見つけて談笑したりしました(チラシにも誤字がある)。大浦君がレター用紙に何か書いていたので尋ねてみると、歌手の方に入浴剤に添えて渡すメッセージを書いているとのこと。本番に備えてホテルでゆっくり体を休めてほしい。彼の周囲への気遣いは出会ったときから変わりません。人心をつかむことなしに良い音楽は生まれないのかもしれませんが、彼の先天的ともいえる気遣いは音楽の為でなくても日頃から発揮されています。こうした個性が広い人脈を獲得しているに違いないと感心しました。指揮台の上でも大浦君の優しさは変わりません。団員は平日仕事や学生をされているアマチュアの方々です。音楽への取組みは真摯ですが、厳しすぎてはついて来られなくなるでしょう。本番への時間が迫る中、時に悩み演奏を練り上げる大浦君は、巨大な壁画に対峙する画家のようです。音楽好きの私にとって、そんなクリエイティブな時間を共有することができたのは、幸せという他に言葉がありません。コンサートマスターの女性の方が大浦君と熱心にやりとりされていました。とてもエネルギッシュな方です。後で大浦君からこっそり年齢を聞いて、見た目よりお年を召していることに耳を疑いました。この若さが楽団を牽引しているに違いありません。リハーサルは夜9時の退館時間ぎりぎりまで行われました。親切な楽団の方が駅まで送って下さいました。
 本番当日、直前練習は朝10時からです。大浦君は時間を見誤ったようで、10時直前の到着となってしまいました。いやいや疲れていたのかもしれません。シンフォニーだけでも50分間を要します。長丁場にあれだけの運動量となると体にかかる負担も相当なものでしょう。その上演奏の責任を負い、大勢のメンバをまとめるプレッシャーも決して少なくないでしょう。楽屋で時折大変そうな表情を見せるも、表に出るとそれを隠してしまえるところに仕事人の凄味を感じました。エントランスに大勢のお客さんが並んでいたのか、開場が予定より15分前倒しとなりました。本番後は大浦君が四方八方の対応に追われることを考慮し、ここで若きマエストロと別れ、楽屋を後にしました。
 前半のヴェルディの楽曲は、本番の出来が一番良かったのではないでしょうか。イタリアオペラがこの世界の入口だった大浦君にとって、その伝導は使命のようなもの。選曲もバランスが良かったように思います。勇壮なマーチの箇所では特に合唱団の男声部がしびれる迫力を提供してくださいました。観客の耳に最も印象を残した楽曲のひとつだったであろうことが、万雷の拍手から伺えました。後半のシンフォニーは、練習の時から懸念していた綻びがちょくちょく顔をのぞかせましたが、第2楽章の主題など聞かせるところはしっかり聞かせていました。第一楽章と終楽章で何度も押し寄せる金管の咆哮は、聴衆の心を揺さぶり、楽曲が持つ魅力を十分に伝えていたように思います。弱音の脆さを金管群がドカーンと一掃していたような気持ちがしました。本番と合わせて2日間で同じシンフォニーを3度聴きましたが、演奏のレベルが想像していたより高かったこと、そしてこの大傑作が持つ壮大で明快な魅力に、飽きることなく3度同じ興奮をもって聴くことができました。大浦君は2月末、自身の故郷に近い仙台のオーケストラでも同じシンフォニーを振っています。時期が近かったこともあり、同じ曲を採用したことに楽をしてしまったと漏らしていました。しかし、その分厚木では洗練されたものであったことでしょう。大浦君の指揮は確実に進化しています。プロとして魅せる技術も向上しています。この先彼がどこへ連れて行ってくれるか楽しみです。このような幸せな時間を与えてくれたマエストロに、そしてすてきなサウンドを聴かせてくださった厚木交響楽団とオペラリリカ八王子合唱団の皆さんに、万感を込めて叫びたい。ブラボー!
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石見銀山

2009/02/21 12:42
 石見銀山へ行きました。今年初めての小春日和の昼過ぎ、大阪を発ち新幹線で岡山まで。特急やくもに乗り換え中国山地を縦断する伯備線を北上します。途中山間に幾分場違いな寝台特急サンライズ出雲とすれ違い、遠く薄暮に雪を冠した名峰大山を眺めながら、19時頃出雲市駅に到着しました。数年前出雲大社を参詣した折り出雲そばに舌鼓を打ち感激したので、早速久しぶりの割子そばを頂きました。濃厚で腰の強い麺はさすがでしたが、打ってから時間が経ったのか、瑞々しさを欠いていたのが少し残念でした。一夜明け、翌朝6時の始発益田行にて大田市駅へ向かいます。群青色に染まる未明の海、低い波頭が白い泡沫を拡散しながら打ち寄せる様は陶磁器の墨絵のようです。静寂に図々しく割り込むディーゼルの音に掻き消され届かないはずの波の音が、耳の奥を幽かに震わせます。冬の海にしては凪に近い状態に、昨日に続き良い日和になることが予測できました。
 誰もいない大田市駅でやはり始発のバスを待ちます。改札脇の陳列棚に置かれた銀山の資料を眺めていると空が明けてきました。六畳ほどの改札口に、列車の到着を待つ客が数人入ってきました。まだブラインドが下りた窓口から当直の駅員さんが顔をのぞかせます。駅前のロータリーに路線バスが入ってきました。石見銀山は世界遺産登録後、観光客が激増したそうですが、早春の早朝にその面影はありません。バスは山間の田園地帯を駆け、途中市民病院を経由し、30分ほどで大森バス停に到着しました。旅の前に大田市役所の方から丁重な情報を頂いていたので効率よく目的地へ向かうことができます。ここから徒歩で龍源寺間歩を目指します。間歩とは坑道のこと。龍源寺間歩は観光客が出入りできる唯一の坑道として石見銀山を象徴するスポットのひとつです。市道銀山線は2週間前に起きた落石の影響で通行止めとなり、その間龍源寺間歩は閉場を余儀なくされていましたが、前日に仮設迂回路が設置されたことで通行が可能となりました。朝8時、遊歩道にはまだ観光客は見られず、補修工事にあたる土木業者の方や犬と散歩する地元の方くらいです。観光客が増加したからでしょうか、山沿いの遊歩道は近年造成されたように見えます。しかし材質や色彩が里山に違和感なく溶け込んでいるのはさすがです。路傍の道標に誘われ左手の坂を上ると、清水谷精練所跡がありました。精錬所は採掘した岩石から銀や銅などを抽出する場所です。この清水谷精錬所は大阪の藤田組によって、1895年に巨費を投じて操業を開始しましたが、わずか1年半で廃業したそうです。一説には良質の鉱物が枯渇してしまったことが原因とされています。作業場の家屋は残されていませんが、階段状に八段を数える石垣の壁面に、窯跡らしき大きな穴が5つほど並んで口を開いていました。石垣の至る所に梅の木が立ち、さながら花壇のような風景です。足許には発掘調査のためシートがかけられ、立入禁止とされていたため石垣の中腹へ至ることはできませんでした。
 遊歩道を南下するといよいよ龍源寺間歩が見えてきました。石見銀山には間歩が600ほどあるといわれていますが、前述の通り現在公開されているのは龍源寺間歩だけです。狭隘な山と山の間に受付小屋があり、左手の鬱蒼とした山肌には大きな坑道がぽっかり口を開けていました。まるでテレビゲームの洞窟の入口です。先刻開場したと思われる受付で入場料を支払い坑内に足を踏み入れます。私が最初の客なのか坑内には誰もいません。入口付近の高さは1.5mくらいと低く圧迫感があり、腰を屈めながら前へ進みます。この態勢で150mも進むのかと不安に思っていると途中から先は少し高くなっていました。天井が崩れないよう鉄骨で補強してある個所もありました。随所にライトが点灯していますが、仄かな明るさに目を凝らさなければ頭をぶつけそうになります(明る過ぎると雰囲気を壊すのでこれくらいが適当だと思う)。山中に埋没した岩盤をくり抜かれているため、上下左右すべて岩です。鑿で削られた跡で細かくごつごつしており、砂礫をまぶしたようにざらざらしています。絶えず雨漏りのような地面を打つ音が聞こえます。結晶のような岩の突起に垂れる水滴がライトに照らされ、光と影を含んで小刻みに揺れ、飽和に達すると地球の中心めがけて一直線に落下します。何だか奇妙な精神の落ち着きを感じます。観光客が多い日中では、この胎内のような洞穴の魅力を楽しむことはできないでしょう。坑道のあちこちに這わなければ進入できないほどの細い竪坑が差し込んでいます。鉱脈を追及して掘られたのでしょうか。また外界から空気を取り込むためでしょうか。銀の採掘に懸ける坑夫たちの執念をひしひしと感じます。150mほど進むと少し広い空間があり、更に奥へは人ひとり入れる程の坑道が伸びていますが、柵があって進むことはできません。坑道とほぼ直角の左手に近年作られた出口用の通路が伸びています。しかし現在出口は閉鎖されているようで、外へ出るには来た坑道を引き返すことになります。そのため受付で徴収された入場料は平時の半額になっていました。そもそも来た坑道を戻る方が遺産を倍に体感できて得だと思います(出口用の通路には途中何かあるのでしょうか)。操業当時、坑内では落盤や酸欠など事故があったに違いありません。過酷な労働環境は坑夫たちの体を蝕んだに違いありません。世界にその名を知らしめた石見銀山の栄華は、労働者の雨露で飢えを凌ぐような苦闘と地道な努力によって支えられてきたのでしょう。
 石見銀山は16世紀頃、世界の銀産出量の三分の一を占めていたことで、大航海全盛のヨーロッパの地図にもその名が刻まれました。銀の取引目当てに日本を目指したポルトガル人によって、まず種子島に鉄砲が持ち込まれ、次にフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝来します。石見銀山がこれら日本史上の大事件の引き金を引いたとされています。やがて江戸時代には幕府の直轄領となり、その財政を始終一貫して支えることになります。ミミズの巣のようにこの地に無数に走る間歩ですが、観光客が目にできるほとんどは地表に現れた出入口だけです。私はこのたび国内の世界遺産をすべて回りました。石見銀山は最も地味な世界遺産です。ひょっとしたら世界で最も地味かもしれません。しかし、龍源寺間歩を散策し、このような坑道が張り巡らされていることを思うと、その隠された重大な価値を認識しないわけにはいきません。また、鉱山の経営で栄えた大森地区の町並み、周辺の里山風景は実にのどかで、江戸時代から明治初期にかけて建てられた日本家屋、寒風に耐え咲く畑の葱坊主、煎った唐黍のように綻ぶ梅の花を眺めていると、日本人に生まれて良かったと思います。かつて世界の経済を動かし、国内の財政を支えた石見銀山は、現在我々の心を豊かにしてくれているようです。耳を澄ませば鑿を振るう軽快な音がどこからか聞こえてきそうです。



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ジョン万次郎

2009/01/10 16:19
 自身と同じ誕生日の偉人に中浜万次郎がいます。今日、ジョン万次郎としてその名が知られています。ジョン万次郎の呼び名は井伏鱒二の直木賞作品『ジョン万次郎漂流記』が始まりのようです。「ジョン」とは彼を救助したアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号に由来し、当時彼はジョン・マンと呼ばれていました。井伏鱒二は万次郎とジョン・マンの組み合わせをもって、ジョン万次郎としたことが考えられます。幕府に登用されてからは故郷の地名中浜を冠し、中浜万次郎と名乗りました。
 1827年1月27日(小説には文政10年の月日は不明とある)、土佐の国幡多郡中の浜(現在の土佐清水市)の貧しい漁村に生まれた万次郎は、早くに父を亡くし少年の頃から漁に出て家計を支えなければなりませんでした。15歳の頃、すずき漁の魚はずしの役を担った出漁が、彼の人生を大きく変えます。漁船には近隣の漁師伝蔵(38歳)、その弟重助(25歳)、伝蔵の息子五右衛門(15歳)、仲間の寅右衛門(27歳)と万次郎の5人が乗り込み、正月5日に宇佐浦を出帆しました。延縄を仕掛けるも成果が思わしくなく沖合で魚群との我慢比べが続く中、足摺岬の沖合にて数日にわたる暴風雨に遭難します。備蓄された食料は尽き、漁で得た鮮魚で飢えをしのぎ、伝助の顎鬚が凍結するほどの風雪に耐えて漂着したのは、太平洋に浮かぶ絶海の孤島でした。小説では地獄絵図のモデルになるような不毛な環境であると形容されています。現在この島は東京都の管轄下にある鳥島といい、東京から南に600km(八丈島までの距離の倍)ほど離れた、特別天然記念物に指定された無人島です。飲料水に乏しく雨水で喉を潤し、アホウドリ(現在は19世紀後半の乱獲がたたって絶滅危惧種に指定されている)の肉を食らいながら命をつなぐなど、せっかくの漂着もなお死と隣り合わせの過酷な生活が続きます。約5ヶ月後、近隣を通りかかったマサチューセッツ州ニューベットフォードの捕鯨船に救助され、奇跡的に一命を取り留めました。
 小説では、ジョン・ホーランド号の船長ホイットフィールドは温厚、寛大な人格者として描かれており、漂流者5名を賓客のように丁重に扱います。航行中寄港したオアフ島ホノルルにて万次郎を除く4人は上陸し、異国での生活を始めます。船長に気に入られた万次郎は引き続き航海に同行し、ついにニューベットフォード(ニューヨークの東300kmほど離れた都市)に帰港、アメリカ本土に歴史的な第一歩を踏み入れます。万次郎は航行中にアメリカ人顔負けの捕鯨技術を身につけ、またホイットフールドの養子として現地の学校に通い、測量、造船などの世界最先端の技術を学ぶ機会を得ます。万次郎が日本に戻ったのは1851年(24歳)のこと。鎖国ゆえ外国船が入港できない時代、沖合から伝馬船にて漕ぎ入れ、まず琉球に上陸します。薩摩藩の奉行所の取次により本土に送られ、開明論者の藩主島津斉彬に謁見し見聞を披露します。薩摩藩は彼らを丁重に扱い、円滑な帰郷を斡旋したといわれています。その甲斐もあり、幕府直轄の長崎奉行所での取り調べを終えた一行は、ようやく念願の土佐の土を踏むことが叶いました。万次郎の母は健在であったそうですが、小説には再会についての記述が端折られており、もう少し行を割いても良いのではと思いました。帰郷して間もなく、万次郎は26歳の頃、これら異国で修学した教養と語学力により、幕府の旗本に抜擢されるという異例の出世を果たし江戸へ向かいます。1860年(33歳)に勝海舟に随行し咸臨丸に乗船するなど、尊王攘夷と日米修好通商条約の批准に揺れる日本の外交の第一線で通訳として活躍します。
 ジョン・ホーランド号内で初めて見た世界地図に日本の矮小さを知り、アメリカで吸収した西洋文明と民主社会は、地方の漁村出身の万次郎にとって別世界の出来事のように思われたに違いありません。様々な人種に対し、彼らがどのような表情で接したか想像するのは何やら愉快です。万次郎が持ち帰ったアメリカ社会の見聞が、同郷の坂本竜馬の開明思想を開花させ、また薩摩が倒幕挙兵する直前には、世話になった薩摩藩からの招聘に応じ、血気盛んな藩士らに軍艦運用術と英語を指南したといいます。幕臣でありながらのこうした働きは、上司である勝海舟の広い視野にも助けられ、国内の既成概念に縛られない世界観を形成していたことが伺えます。小説からは、ホイットフィールド船長との親子愛にも等しい子弟愛、ホノルルの人たちの温かいもてなしの心が伝わります。伝蔵は帰国するまでの約10年間をホノルルで過ごしました。重助は漂流時の傷が悪化してこの間病没します。五右衛門は現地の妻を娶るも、後に妻を残して万次郎らと帰国。寅右衛門は当地を気に入り、万次郎らの再三の誘いを拒んでついに帰国しませんでした(骨を埋めたかは不明)。現地の住民や行政から施しを受け、各々申し出て仕事に就くなど豊かな生活(金銭的な豊かさではなく)を送ったようです。一方、合衆国にてホイットフィールド家の一員として迎えられた万次郎は、学校を卒業後捕鯨船に復帰すると、船員たちの投票で副船長に選出されます。また、咸臨丸で帰国の途中ホノルルに凱旋寄港した万次郎を、現地の人々は大いに祝福したそうです。異国の人々から信頼され、愛されていた様子が伝わります。維新後、万次郎は開成学校(現東京大学)の教授を勤め、1870年(43歳)には普仏戦争視察のため大山巌に随行し渡欧します。しかし帰国後、折からの病状が悪化し、71歳まで残された後半生を静かに過ごしたそうです。小説の末尾、万次郎の念願は政治家でも、教育者でもなく、いつまでも大海原での捕鯨を夢見ていたとのことです。
 万次郎が没して半世紀後、日本はハワイを奇襲します。万次郎たちが築き上げた関係も、時代の流れが根こそぎ破壊しました。現在、両国の関係は問題山積とはいえ、まずまず良好といえるでしょう。この先幾度も両国間での対立の疑念が生じるに違いありません。そんな時、万次郎やホイットフィールド船長のことを少しでも思い出す心の余裕があればと、願ってやみません。
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春日山城

2008/11/03 19:01
 大阪と新潟を9時間で結ぶ寝台急行「きたぐに」に乗りました。目的地の直江津まで8千円程度と安価であることから、23時27分始発の自由席(4人用ボックスシート)に陣取り、約6時間を他の旅客と向かい合わせで過ごしました。言うまでもなく田舎の夜景である為、また途中まで普段の通勤経路と重なる為、特に車窓を楽しむつもりもなく、ましてや週末の疲労もあって始発から眠るつもりでいましたが、米原あたりまでは初めて夜行列車に乗る興奮から、眠気を催しませんでした。北陸本線に入ったあたりで尻の痛さに限界を感じ、横臥に切り替えたところ、落ち着いて眠りにつくことができました。無論横に2人分の長さしかない座席に臥しても足を延ばすには至りません。特に長身の私は頭と胴できっちり二人分を占有します。うまく足を曲げるなど工夫し、態勢を変えながら過ごしました。眠る乗客に配慮し、大津あたりから翌5時56分に到着する直江津駅の手前まで車内アナウンスはありません。途中下車する場合は自分で到着時刻を把握しておかねばなりません。周囲は週末の帰省客もあって老若男女さまざまでしたが、それほど混雑はせず、列車が動き始める度にガツンと音を立てる連結部の軋みを除くと概ね快適でした。
 予報通りにぐずつく曇空の下、未明の直江津駅に到着しました。すぐに信越本線に乗換え隣の春日山駅に向かいます。7時前の春日山駅には駅員がおらず、周辺に空いている店もなく(そもそも店がない?)、ただ来年の大河ドラマ「天地人」のPR用に揚げられた幟に、直江兼続の名がはためいていました。今回の目的は上杉謙信の居城春日山城です。午後は長野市の川中島を訪れたかったことから、早い時間に春日山を攻略しておきたいと考えました。もともとバス停がないのか?それとも早朝だからかバスはなく、待合せのタクシーの影もなく、時折ぱらぱら降る雨に傘を開いたり畳んだりしながら約30分かけて山の入口まで歩きました。山城であることからそれほど標高は高くないであろうこと、また孤立した山であることから、遠目にも目的の山を識別することができました。城や櫓は一切残されておらず、外観は緑生い茂る平凡な山です。もともと石垣も天守閣も持たない山の起伏を利用した天然の要害です。一部の土塁を除いて、ここに城があったことを素人目に判別できるものではありません。春日山城の成立年は未詳。1507年に長尾為景が城主になって以降、晴景、景虎(上杉謙信)、景勝と四代の居城となり、戦乱の世が終わった1607年に麓に移城され役目を終えました。玄関口では上杉謙信の銅像が迎えてくれます。5メートル程度の石垣の高台に設置されており、間近に観覧できないのが残念でした。謙信を祀った春日山神社で参拝を済ませ、ぬかるんだ土に足元を確かめながら、木杭が打たれた階段状の坂を上ります。千貫門跡のあたりで雨が一段と激しくなってきました。草を打つ雨粒が葉に跳ねるのを見て傘の外に掌をかざすと、水滴に交り白い雹が一粒転がり込んできました。雨宿りする場所もなく、設置された看板の庇を背にしばらく時を過ごしました。更に上へ昇ると虎口から直江屋敷跡に至ります。今は草地に石碑が建つのみですが、戦国時代の山城の特徴に違わぬ、多層的に郭が連なった連郭式山城の仕組みがよくわかります。当時と若干の変化があるとはいえ、曲折する隘路、急斜面は外敵の侵入を困難とし、幾層にも分けて門、屋敷が設置された様は地の利を最大限に生かしたもの。難攻不落の城砦と謙信の武勇があいまって長らく越後は外敵を寄せ付けなかったことが推測できます。
 山頂付近に毘沙門堂が見えてきました。山中、唯一再現された建造物だと思われます。小さな祠には謙信が崇拝した毘沙門天が安置され、ここで謙信は出陣前に戦勝を祈願したといわれています。毘沙門天は仏教四天王に数えられる多聞天の別称であり、七福神のひとりとしても知られる戦勝の武神です。鬼のような形相で他を威圧する攻撃的ないでたち。謙信は自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じていたことから、戦場での鬼気迫る気勢が目に浮かびます。再度雨が激しくなってきたので、祠堂の近隣に設置されたあずまやの軒を借りました。女郎蜘蛛が四方2,3匹、風に震える糸の上で寒げに巣を守っていました。さほど近くではないですが、雷が落ちるたびに、轟音が遠方の山々に反響して聞こえました。巨神が韋駄天の速さで彼方へ駆けるようです。山頂付近にいるので、雷に気をつけなければなりません。雨はいつ止むとも知れないので、雷との距離を測りつつ本丸へと歩みを再開しました。本丸とそれに続く天守台も今あるのは石碑のみで、敷地はそれほど広くなく、どちらも家屋一軒分程度です。ただ上越市街、直江津港を眺望できる景色は優れない天気の下でも十分良好なものでした。上杉謙信はここに起居していたのでしょう。歴史好きは異口同音に唱えますが、建物の残存は二の次であり、その人物が生きた場所に立つことに最大の感銘を受けます。復元されたものには余り興味を示さないのも彼らの特徴かもしれません。春日山城の本丸に立つ私を毘沙門天が雷をもって歓迎してくれているようです。信長との手取川の戦いから帰還した翌1578年に謙信はここで没しました。戦闘に明け暮れた49年の生涯、越後の龍と謳われ、信玄との5度にわたる川中島の戦いが衝撃的な伝説を生んだ稀代の軍略家は、一方和歌、書、茶道、琵琶の演奏にも長けていたといわれます。大軍を率い自ら太刀を振るう統率力、公家とも交わる気品、覇を唱え上洛を狙う謙信の野望が、まだここに息づいているように感じました。下山途中、急速に雲が引き、まばゆい太陽が顔を出しました。水滴を落とす木立の間隙を安堵の風が吹き抜けました。
 下山後、上杉家の菩提寺である林泉寺へ向かいました。謙信は7歳から14歳までこの寺に預けられ6代目住職天室光育から教育を受けます。謙信の人格の基盤となった教養、信仰心はこの名僧によって培われたといえます。山門を潜った右手にある宝物館は必見。謙信直筆の山門大額や書が極めて良好な状態で保存されており、謙信が纏った「毘」の字を兜に掲げた甲冑、戦場に携行したとされる毘沙門天像、復元された軍旗など当時を知る上で貴重なものばかりが展示されています。昨年大河ドラマで謙信を演じたガクトさんもここを訪ねたとのこと。墓所の石段を上がると苔むした謙信の墓がありました。謙信の死後、御館の乱を制した謙信の姉の子、上杉景勝が家督を継ぎます。求心力の低下により勢力が衰え、信長に矛先を向けられ一時は存亡の危機を迎えますが、秀吉の時代になると景勝は豊臣氏五大老に数えられ、やがて時代が徳川に移ると米沢藩の初代藩主となります。景勝は謙信の棺を林泉寺から自ら封ぜられた任地、会津、米沢へ移したといわれていれます。時代が変遷しようとも、謙信の人望、武勲に満ちた生涯が上杉家、領民の拠りどころとなっている様子が伺えます。



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ライン河畔

2008/07/06 00:07
 10月6日午前9時に関西国際空港を離陸したルフトハンザ機は、12時間の長い飛行を終え、定刻の午後3時頃フランクフルト空港に到着した。飛行時間は半日だが時差がある。ヨーロッパへのフライトは2年前ロンドンへ飛んで以来2度目。着陸前、眼下の都市を遮る雲の中が猛烈に吹雪いていた。薄手の防寒着しか携行していないので予想以上に寒いのではと心配になった。着陸してみると雪は止んでいたが、滑走路は一面湿っていた。自身初となる念願のドイツの大地に第一歩を踏み出した。ウィーン同様心地よいインスピレーションが包んだ。
 初日はボンのホテルに宿泊する。追加料金なしでケルン・ボン空港に飛ぶことができたが、鉄道で2時間程しかかからないので陸での移動を選択した。ドイツの国営鉄道はDB(Die Bahn)という。切符を買うにも自動券売機に慣れておらず、じっくり眺めても分かりそうにないので、窓口で買うことにした。窓口で切符を買うと発着時間と番線の情報を印字して渡してくれる。フランクフルト空港駅は地下にあり、指定のホームで列車を待った。しかし予定時刻を過ぎても目当ての列車が入線してこない。挙句後発の列車が先着し始めた。不安になり、近くにいたドイツ人夫婦に聞いてみた。どうも遅れているようで、私たちもそれに乗るから一緒に乗りましょうということだった。後になって気づくがDBの遅延は日常茶飯事のようだ(日本が正確過ぎるのか)。改めて頭上の電光表示を確認すると、確かに「spater(遅延)」となっていた。遅れること30分、ようやくコブレンツ行きの列車が入ってきた。煤けた赤いディーゼル車に牽引された力強い車体だ。発車してしばらくすると、列車は地上に出た。郊外の町並みは殺風景で、天気が悪いこともあり重い空気を感じた。列車のドアは日本のローカル線同様、駅に着くと脇のボタンを押すことで開扉できる。折りたたみ式のドアが自動で閉まる勢いは強くバタンと音をたてるので、挟まると大ケガしそうだ。座席が空いたので座ろうとしたが、腰に上着を巻いていたので足元がよく見えず、誤って婦人のかばんの上に腰をかけた。談笑中の持ち主には気づかれなかったが、隣席のおじさんに笑われた。
 ライン川に沿い北上する車窓からは暮れなずむ対岸の風景を楽しむことができた。小高い丘にブドウ畑が広がり、至るところに石塁の古城が見られた。時折小雨がちらつく偉大なるラインは冷たく目に飛び込んできた。その分、車内の居心地が暖かく感じられた。座席は向かい合わせになっており、対面に会社帰りのサラリーマンが2人、隣に1人座っていた。彼らはパソコンの広告を見せ合ったりしていた。車内での携帯電話の規制はないのだろうか、着信メロディがあちこちから聞かれた。どれも既に日本では聴かれないモノラルな音だ。対岸のニーダーヴァルト丘陵に、1871年のドイツ統一を記念して建てられたゲルマニアの女神像があった。活版印刷機を発明したグーテンベルクの生誕地として知られるマインツにも停車した。河畔をのんびり駆ける列車は、途中対向列車待ちで更に30分ほど遅れ、乗継駅のコブレンツに到着した。町は夜の帳が下りていた。到着が大幅に遅れたので、窓口でもらった乗換え時刻はとうに過ぎていた。構内を歩くと別のホームにボン行きの表示があり胸をなでおろす。夜だからだろうか、コブレンツからボンまではほとんど山の中のように感じた。
 1時間ほど揺られるとボンの町並みが見えてきた。旧西ドイツ(ドイツ連邦共和国)の首都として戦後大きな役割を果たすも、人口31万人を大都市というには及ばない。気温は耐えられなくないが、上着を羽織らねば寒い。駅舎は石材造りの古風なデザインで、ベーグル屋やコンビニなどの売店が並んでいた。こじんまりした駅舎周辺は、会社帰りのサラリーマン、多くのカップルや若者らで活気が溢れていた。クリスマスで賑わう商店街のような情景だ。ホテルは南に1kmほど下ったボン大学の脇にある。不慣れな夜道に大きな荷物は危ない。タクシーに乗ることにした。海外ではタクシーの後部ドアは乗客の手で開け閉めをする。開けてくれるのを待っていると、運転手がなぜ乗らないという顔でこちらを伺っていた。
 部屋でデジカメを充電しようと、日本で買った欧州専用プラグを得意に装着した。しかし5年前購入したデジカメに付属していたACアダプタは、100Wの国内専用だった!パチパチ怪しい音をたてるので振り返ると一本の煙が中空に筋を立てていた。唖然とする間もなく慌てて抜く。後には異臭が残された。この旅を文書で記録することにした。



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学問のすすめ

2008/05/05 18:43
 福沢諭吉といえば1万円札の肖像が有名です。著書『学問のすすめ』を読みました。1872年から1876年にかけ十七編に分けて執筆された宝鑑は、一編につき約20万部発行されたといいます。維新期の日本の人口は約3000万人。現在の人口換算でいくとシリーズ1千万部突破の大ヒット作品といえるでしょう。その痛快な思想開陳には、孔子や赤穂浪士を否定するなど幾分過激な内容も散見されますが、文明開化の時代に生きた情熱の躍動感に圧倒されます。大変革直後、浮足立つ我が国の価値観の中で、確固たる気概と先取の観がみなぎっており、民主主義を謳歌し、国家独立を高揚するものです。表題に違わず学問を推奨した内容に異なりませんが、諭吉は自分の生計を支え、引いては国家の形成に寄与するものでなければ、真の学問ではないと説いています。江戸末期、洋書が大量に流入し、自身も使節として洋行する中、万事科学的根拠をもって成立することを知ります。幕府時代に栄えた儒学が科学発展の一端も担っていないとの主張はやむを得ないかもしれません。また、主君の為に散った赤穂浪士の挙動にも激しい疑問を投じています(しかし後に世論の反発を買い、当時においては美徳であることを認め、近代における同様の観念を非難するものであることを釈明しています)。また、始終生きた学問を説く当の論説は、近代における処世、人との交わりの重要性についても鋭く言及しています。今日を生きる為の教科書といえるかもしれません。
 大阪の淀屋橋駅と北浜駅の間に緒方洪庵が主宰した適塾があります。我が国の蘭学塾唯一の遺構は、商業ビルの間隙に肩身狭そうに佇立しています。当時の町屋建築が保存されており、玄関から一歩踏み入ると喧噪から隔絶された落ち着きを味わうことができます。縁側や窓から空を見上げると鉄筋コンクリートが頭上を覆い現実に戻されますが、年期を経た梁、畳、植木、障子に包まれた空間は、わが身に流れる日本人の血を静かに呼び覚ましてくれるようです。緒方洪庵はここで医学を研究し、多くの患者を診察する傍ら、全国から集う門下生に蘭学を授業しました。安政の大獄に没した橋本佐内、五稜郭にて官軍に抗戦した大鳥圭介らを輩出したことから、蘭学によって培われた精神は医学に留まらなかったのではないでしょうか。その門下には1857年に塾頭となった福沢諭吉もいます。若き日の諭吉は腐食した幕政に限界を感じていたものの、倒幕派にも信を寄せずをこれを激しく非難していました。しかし、やがて近代化への改革を次々と断行する明治新政府を、興奮をもって称賛するようになります。1868年に慶応義塾を設立し、国家を代表する教育者の道を歩む矢先に『学問のすすめ』は執筆されました。そこには諭吉の思想家としての憂国の情と、教育者としての闊達な訓示が明朗な表現で凝縮されています。読中読後、自分にとって真の学問とは何か、考えずにはおれませんでした。



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老子

2008/04/28 00:40
 中国の老子の本を読みました。書名『老子』はその構成から別名『老子道徳経』とも呼ばれています。名句「上善水の如し」は、日本酒の名前に用いられています。老子が活躍した時期は春秋戦国時代ですが、ほとんど記録が残されておらず、実在が判然としない半ば伝説のような人物です。中国の代表的な思想に孔子が創唱した儒教と老子を信奉する道教(古来からの民族宗教)があります。私は『論語』を読んだことはありますが、この度『老子』に初めて触れます。儒教と道教の両輪を知らずにいることは無知に等しく、老子に触れることで孔子の思想さえそれほど理解していなかったことに気付かされます。ともに徳のあり方を説きながら、老子の教えは孔子とは真逆です。孔子は礼楽を推奨し、学問の必要を説きますが、老子はそれら一切を痛烈に批判しています。老子は知識を蓄えることで社会の競争が助勢され、人々が一層苦しむことになると危惧し、そういった知識を捨て、自然と合一しその身を任せよ(無為自然)と訴えています。自然界に底流する母なる領域こそ万物の根源であり、老子はその杳としてつかみどころはない精神世界を「道」と呼び、道を会得した人物を聖人としています。紀元前における競争社会が人間に歪をきたすとの問題提起は、有史以来人間の本質が何も変化していないことに気づかせてくれます。特に現代、我々は学歴主義、実力主義と呼ばれる世情に身を晒し、日夜過重なストレスに苛まれ生活しています。また、火急な科学の発達は生活を便利にする反面、更に多くの不幸を生み出している事実も見逃すことができません。留まることの知れない殺傷兵器の開発と実戦での使用、産業革命以降続く地球温暖化への一途はニュースで目にしない日はありません。手塚治虫著『火の鳥』未来編では発達した頭脳を持つナメクジが文明を興し、全面戦争の挙句滅亡します。最後の一匹となったナメクジはなぜ我々が知能を持ったのか、恨めしそうに神に問います。人間社会の進歩が、真の進歩といえるのかとの疑惑は老子の時代から叫ばれていたのです。しかし現実的に、老子の教えを鵜呑みにすると、木偶の坊のようにならざるを得ません。実際老子も自身が世間からの痛罵の対象であったことを記録しています。道に立ち返るとは退行と受け取られ兼ねません。では現代に至るまでその教えが脈々と生き続けるのは如何なることでしょう。異常な速度で変化を重ねる時代、道に立ち返るとは、己を見失わない作用をもたらすのではないでしょうか。何もかも浮世の出来事、片意地張って、勝負に勝ったところでその幸福が一体何なのであろうか。そもそも勝負に勝たなければ幸福になれない窮屈な観念こそ根本的な過ちである。勝負をしないから負けることもないとされる聖人像は現実離れしていますが、無形の道による無限の救済に浸る感覚を覚えます。そこに、感情や礼儀や知恵や技術からのアプローチでは到底到達できない人徳のルーツが見えるような気がします。



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講談社学術文庫 著者:諸橋轍次出版社:講談社サイズ:文庫ページ数:265p発行年月:1982年09月

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