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大阪人みのさんが雑感を書いています。
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クラシックだじゃれ Vol.15

2012/01/08 15:33
マスネが大河ドラマのために作曲 タイラの名将曲

入念にサロンパスを貼る弦楽器の名匠 スケノジバリ

あぶないオーケストラ エロエッチ系交響楽団

増税法案についてプッチーニがひとこと トースカ

京急の車掌に挑戦するフィンランドの作曲家 シエリエス

毛皮の手触りが好きなロシアの作曲家 ラブマジもふ

毎日が春の祭典 吸とらチン好きー

サファリーパークで演奏する楽団 サイと・キリン・おーメストラ

椿姫がへえを連発した ラ・トリビアータ

蝶々夫人が自虐的になった マダム・バカ夫妻

やたら魚を揚げるソプラノ歌手 サバ・フライトマン

受け入れが何かと問題になるコンサート施設 がーれきー放る

ちらし寿司を作るワルツ王 ごはん・酢とライス

寄港地を聞こうち?と言ってしまったフランス人作曲家 スベール

平城遷都1300年祭を盛り上げたアメリカ人指揮者 せんと・奈良の

のび太が好きなアメリカの楽団 入浴・見る

実は本業は漁師だった作曲家 普段釣りすと

ブラームスが箱根のランナーたちに応援歌を作曲 大学駅伝序曲

フランス語の歌曲ばかりとりあげる指揮者 マリス・シャンソンス

演奏前にザキヤマをかます指揮者 くる〜!とまずは

やりすぎの家政婦を讃える大曲 ミタ・ソレムリス

ニューイヤーコンサートに合わせて現れた 夜半・出頭ラウス

中くらいの速さでお参りをした 詣でらーと

大晦日にシェーンベルクとラフマニノフがついた 浄夜の鐘

ニールセンがスベッた 不発

おモチが好きなイタリア出身の作曲家 オゾーニ

ラフマニノフが風呂場で歌う曲 ホカリーズ

寝具にこだわるオルガン奏者 フトン・モーフマン

バッハの名曲を好む女子プロレスラー アシャコンヌ

貸した金をチャラにした世界的チェリスト ロストな棒引き

第九を振るなら ダイク王

ジャンボ・スキッキのラウレッタが歌う 私のお象さん

うまそうなオルガン奏者 トン・ポークマン

ブルース・ウィリスが出演するCMにブラームスが音楽を付けた ダイハツつるてん序曲

野田首相が上演を目指すチャイコフスキーのオペラ 値上げにー・お税金

ボロディンが志望校に悩んだ 中央・亜細亜の早慶

ミラバケッソを連発するシューマンの奥さん クラレ

フランスの作曲家が棒で殴った サティスティック

やたら祈祷するドイツの作曲家 シャーマン

シューベルトが食べ残しを保存した 具冷凍

サティが大化の改新に思いを馳せた 官僚的な蘇我氏ね

ブルックナーがジーンズをはいた テ・デニム

横浜のサッカーチームを愛するロシアの作曲家 ラブマリノス

熱狂的な支持者を持つイタリアの指揮者 カルト・マニア・ジュリーニ

吹いたらやけどした ぐらり熱湯

反響が気になる楽曲 ダジャレリア・ウケルカーナ

キン肉マンと親しいバロックの作曲家 テリマン

やたら記念日に万歳する作曲家 ビバるデー

聖夜にがんばるドイツの作曲家 リア充と・してらうす

ツイッターで拡散するフィンランドの指揮者 サラスデ
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クラシックだじゃれ Vol.14

2011/12/24 00:00
ツイッターで拡散するフィンランドの指揮者 サラスデ

バロックの舞曲を演奏する猿の集団 サルバンド

サンタクロースが指揮をするロシアの名門 サンタと出てる振るく・フィル

イブにやってくるフランスの作曲家 サン=ターんす

ぼったくられた作曲家 食べると・10万

ベートーヴェンがかつてオグシオに捧げた楽曲 バドミントンの勝利 

ドビュッシーのオペラ ヘレカツとメンチカツサンド

お役所の上役が指揮するサン=サーンスの交響詩 市の部長 

サン=サーンスが子供を叱った しりぶとう

やたらキュンキュンさせる楽器 オーモエ

将軍様が応援する作曲家 キムショキー=コルサコフ

臨時雇いの出演者ばかりのR.シュトラウスのオペラ エキストラ

ロシアの作曲家がモーニング娘を熱唱した ラフマニーン

ばらの騎士が居酒屋で客を案内した オフタリヤン

指揮者をやりたがる中国の元国家主席 もうタクト

エイトル・ヴィラ=ロボスの心も体も温まる組曲 ブタジル風バッハ

演奏中に弓が胸に当たる ボイング

古楽器の演奏が得意な中日の投手 チェンだろ

チャイコフスキーが大量の迷惑メールに悩まされた スパム行進曲 

ペルゴレージが開演の準備が整ったことを告げた スタンバってもうてる 

へとへとになったロドリーゴの楽曲 アカンデス協奏曲

ある意味断頭台よりアブナイ第4楽章 乱交会への行進 

全体リハーサルの打ち上げで飲み過ぎて帰宅 ゲロブロ

月食を見て叫ぶポーランド生まれの作曲家 へんでれツキ

カラフ王子が上演中止を訴えた 誰も見てはならぬ

オネゲルが国民新党を応援するためにオラトリオを作曲 亀井代表のジャンヌ・ダルク

ちょいちょいラピュタを破壊するオペラの主人公 バルスタッフ

味噌汁やスープに合うショパンの練習曲 ワカメの曲

N響が得意なジャンル 公共局

ファゴットが倒れた バスーン!

多額のチケット料を請求する楽器 ボルン

沖縄ではストラヴィンスキーをこう呼んでいる ハルサイおじさん 

怒りの日にダイレクトメッセージを要求された ディエム・クレ

ウエーバーが連れ込んだ 布団への勧誘

セクハラの容疑を否認するロシアの作曲家 ジョシトゴウイチ

淡白な作曲家 シゲキウス

くるみ割り人形に横浜銀蝿が出演 ハマのワルつ

ヨハネスは子供のころから喝さいを浴びていた ブラ坊 

つまり牛丼が食べたい指揮者 肉ライス・ああ丼食ーう

ベートーヴェンが年賀状を書いた 賀正付き

レクイエムの着うたしか提供しない有料配信サイト レクチョク

春日さんがレクイエムを熱唱 サンクトゥース!

フランス6人組のひとりも最初はそうだった ミヨー見まね

おっぱい星人のチェリスト メッチャ・パイ好きー

食らいつくウクライナの作曲家 カプ吸うチン

メンデルスゾーンが経営するパチンコ屋 スロットランド

真っ青な指揮者 ブルーの・ワルター

ゴミの仕分けにうるさいピアニスト アルフレート・不燃です

何でも炙る作曲家 グリール

草野球でとにかくあきらめないチェリスト ピエール・フリニゲ
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クラシックだじゃれ Vol.13

2011/12/03 00:20
和田選手が運営するスイスのオケ チューニッチ・ドーンハゲ管弦楽団

のだめを演じるイタリアの指揮者 樹里似

フィガロと結婚を予定している小間使いが伯爵にひとこと スカンナ

入賞に意気込む指揮者 嗚呼コンクール

iPhoneアプリで作曲するロシアの作曲家 ショスマホヴィチ

レスピーギが教室から閉め出された 廊下で待つ

マーラーの1番ばかり聴く漫才師 オール巨人

顔にかける指揮者 カルピス・喰らいばー

大阪駅前でベートーヴェンが叫んだ! 運命だ

ヒゲを蓄えた独奏者が決意のひとこと そろ

駅前に引っ越したイタリアのオペラ作曲家 ベンリーニ 

便秘のベートーヴェンが便座で叫んだ ウンめい

夜の巨匠 まめ吸とろ

やたら演奏を煽る作曲家 セカスジャン・バッハ

清武前代表のCDラックに並ぶドイツの楽団 ドデスネン・主筆ヤメレ

シューマンの娘が女子高生になった 子供のJK

渋谷でだったん人の踊りのゲリラライヴをしても見逃してくれた いいポリ公

長嶋茂雄が好きな交響曲 巨人と不滅

ラヴェルが労働組合からの依頼で作曲 左系のためのピアノ協奏曲

出逢いは億千万の胸騒ぎまばゆいくらいにフレデリック ショパン

名湯の癒しをもたらすバッハの名曲 痔洗浄の有馬

レオンカヴァッロがなげやりに叫んだ 道化師てるぜ!

ガッツが運営する楽団 オケ牧場

ボロディンが往年を偲んで作曲 だっ談志の踊り

ヘンデルが前会長に頼まれて作曲した 調子のよいカジノ

マーラー5番の冒頭で緊張した奏者が正露丸のテーマを吹いた 第1爆笑

大砲の音がうるさいと近隣から苦情があった 1812件

世界一幸せなピアニスト スタニスラフ・ブータン

アメリカの指揮者が開店した定食屋の屋号 まあイケる・ティルソン・とんかつ

ラフマニノフがカラオケでフライング・ゲットを歌って失敗 ラフふまんげ

女声歌手が吟じた アルト思います

シベリウスが追い詰められて作曲した カベギワ組曲

ワーグナーが牧場で羊を繁殖させた 飼育ブリード牧歌

メシアンがSoftbank携帯を片手につぶやいた ツーナンガリヤ

マーラーがファミスタ85をプレイした ナムコをしのぶ歌

マーラーがスパルタ教育をした 泣く子をしごく歌

悲愴交響曲の終わりに笑点のテーマを吹く木管楽器 オーボケ

ファウストに登場するやたらシャイな悪魔 目にすと照れ

読売の一連の騒動を描いたモーツァルトのオペラ 激情し解任

楽団を祀った鎌倉にある神社 粒オケ八幡宮

リストがピアノを弾かずしゃべりまくった 饒舌技巧

演奏後聴衆が一斉に帰り始めた カーテン凍る

山手線から千代田線に乗り換える指揮者 ジュゼッペ・ニシニーポリ

ポリ塩化ビニルで仕立ててしまった 塩ビ服

ボジョレー解禁を楽しむ指揮者 ワインがぶとな

岐阜出身の指揮者 下呂ぎーふ

シューベルトが連日の深酒 未反省

定食屋でバイトする指揮者 サバ煮っす

タクトではなく泡立て器を振る指揮者 ローリング・マゼール

大リーグボール養成ギブスでピアノを弾く作曲家 星シューマン
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クラシックだじゃれ Vol.12

2011/11/15 22:12
沿線では管楽器の調子が良いという 吹くと新鮮

トゥーランドットに仕える電話しまくる三人組 ピ・ポ・パ

岐阜県の観光名所で行われる演奏番組 恵那峡アワー

家事をこなしながら宗教曲を唄う 家政婦のミサ

ハンガリー出身の作曲家が海藻をお湯で戻した フンメルわかめ

お父さんが犬だったソ連の現代作曲家 シラトケ

ナベツネが応援するウクライナ出身の指揮者 メッチャ・放言したいん

プッチーニが大阪の選挙に興味を持った 都すか

オルフが清武代表を心配してひとこと カミナリ・フラーナ

ピアノ独奏曲の完成祝いで泥酔したメンデルスゾーンに差し入れが ウコンか

中古車販売店に転職した作曲家 サテイ

マーラーが球団オーナーに就任 巨人復活

エウリディーチェに別れを告げられヤケを起こした主人公 折る笛を

政略結婚させられたアシュトン家の娘が逃げ出して開業 ラーメン盛るのルチア

R.シュトラウスが交響詩の完成祝いではしゃいだ どんふぁん騒ぎ

チャイコフスキーらが通う風俗店 ロリオとズリエット

ヤンキーだったイタリアの作曲家 ポリ公ね

ものわかりのいいイタリアの作曲家 オリコーネ

ガーシュウィンがオペラ作曲中に間食 ポッキー食べす

ドヴォルザークが自慢した ちんでかいより

ヘンデルがオラトリオ作曲中に倒れた メマイヤ

コーヒーにこだわったラヴェルがひとこと マメ煎るのは

つまみ食いがばれたラヴェルがひとこと 食うとらんよバカ

スガさんが好きなアメリカの楽団 シカオ交響楽団

風俗店で満足した指揮者 シャブル・出とわ

実は関西弁でまくしたてるおばはん ちゃうちゃう夫人

旦那がいない間に実は隠れて ちょめちょめ夫人

旦那が帰って来ず吸いまくる奥さん ちゅうちゅう夫人

ヘンデルが興奮した 腫れるや

ヘンデルが激しく拒絶した メッサイヤ

放送できないロシアの作曲家 ジョシトコウビチ

弟子の頭を軽く叩きながら指導する指揮者 ゲオルグ・シャクティ

屋鋪要と斎藤明夫がプッチーニのオペラに挑戦 大洋ボエームズ

ラ・ボエームのヒロインがショスタコを聴きまくった ミミにタコ

エルガーが夜の街で変身した エロ熊

実はナメック星で神として崇められている楽器 ホルンガ

実は惑星ベジータから来た楽器 カファゴット

風俗店でサービスを受けるフランスの指揮者 シャブル・ピンシュ

ハマちゃんと釣りにいくアメリカの作曲家 スーザん

シューマンのかる〜いピアノ曲 チョロいペラい

エルガーが博多ラーメンの味を尋ねた 一風堂どう?

ブリテンが抗議を込めて作曲 線量レクイエム

ギリシャの国民投票が気になる指揮者 半数・フォン・非ユーロ

ジプシー男爵が核分裂を起こした ばリンカイ

トリッチ・トラッチ・ポルカが農業に打撃を与えた TTP

裏ぎり者の名を受けてすべてを捨ててたたかうロシアの指揮者 デビルカーノフ

R・シュトラウスがジョブズのために書いた アップルス交響曲

賠償金を払う作曲家 ルートヴィヒ・ペイ東電

横浜を買収した作曲家 ルートヴィヒ・ベイ買うてん

鳥刺しが横浜を買収した モバゲーノ
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クラシックだじゃれ Vol.11

2011/10/23 13:27
やたら演奏が難しいベートーヴェンの大曲 みな・それ無理す

ダンディ、波田陽区らが登場するロッシーニのオペラ セトギワの一発師

棒が大きいフランスの作曲家 ポール・デカす

リストが討論会で暴言を吐いた あかんパネラ

琵琶湖で楽しむピアノの魔術師 フナん釣りすと

感情が高ぶりケンカになるモーツァルトの喜劇 激情しファイティン

カダフィの逃亡劇を音楽化 タイサの迷走曲

全日本プロレスを率いたアメリカの作曲家 ジャイアント・バーバー

臨終までがんばったモーツァルト最後の曲 ラクにモーさん 

横浜球団を買収するクラリネット奏者 カーウ・ベイスター

安値世界一に挑戦するワーグナー夫人 コジマ

ワーグナーがベランダの糞害に憤慨した とり好かんといかるで

R ・シュトラウスが西宮の居酒屋で吠えた ハラ討つトラはかく勝たりき

超人が夢中になって執筆した ツァラトゥストラは書くしゃかりき

つっこまれると喜ぶ作曲家 ボッケリーニ

ドビュッシーがレッドカードについて解説 赤色の紙のことね

三重奏が好きなサッカー選手 トゥリオ

風俗店から出てきたワーグナーがひとこと ニュルンヘルスのマジ吸たチンがー

決して拉致されません ギター挑戦

試着室で叫ぶイギリスの作曲家 エルがー

客席に尻を向けて演奏する団体 おーケツとな

チクビを弓でこするヴァイオリニスト めにゅうりん

太鼓の上にコーヒーとトーストが ティンパニで朝食を

よく昼ドラに出演する作曲家 團ちづま

警察で事情聴取を受ける少年の歌 サツなう若人の歌

小さな体の左サイドバック アイネ・クライネ・長友チック

ハイドンとモーツァルトがデンマークを観光 こてんはーゲン

鳥刺しが所属するプロダクション パパ芸能

ショパンがバーベキューパーティで弾く曲 モクターン

同じ田んぼで年2回同じオペラを上演する団体 東京二期作

サバンナにいるソプラノ歌手 キリン・で・カバや

復帰をした指揮者がファンにひとこと お待たせいじ

宮本笑里が楽器を間違えた ニュースチェロ

演奏家がチャレンジするファミコンソフト けっきょく難曲大冒険

おっぱいが好きな指揮者 クレメンス・食らう吸う

ピアソラが緊張し過ぎた エズクワノ

ピアソラのだじゃれが不発だった スベルタンゴ

サティが薬を飲み過ぎた ジュッ・ツ・ブー

公演がうまくいかなかった指揮者 マジス・やりそんス

池辺さんがプロデュース IKB48

まだ赤ん坊の頃 泣き王女のためのパンパース

ブレーキが利かないピアノの魔術師 フランツ・ピスト

国家予算を組むテノール歌手 補正・カネー出す

モーツァルト35番とベートーヴェン9番を聴くサッカー選手 ハフナー・ダイク

ジョブズ氏の功績を讃えるソプラノ歌手 ドン・アップルショウ

山崎邦正が得意な楽器 オーゴエ

追突すると鳴る楽器 掘るん

奥深い香りが長続きするピアニスト マルタ・アロマリッチ

モルダウの次のモチーフを発表する作曲家 隅田な

スメタナがアメリカ経済の不穏な流れを音楽化 ドルダウ
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クラシックだじゃれ Vol.10

2011/09/28 23:23
事実そうであった サイコン・ラトル

風俗店の呼び込みをするチェロの巨匠 ロストロぽん引き

光より速い三重奏 ニュートリオ

フロでやってしまったロシアの作曲家 フロコキえふ

パパゲーノがやたら女性に言い寄られた モテキ

元気ですか!の掛け声が入ったヨハン・シュトラウスのワルツ 春の声

主人公が実は風俗嬢だったオペラ 裏ネタ花嫁

演奏会後にシャンパンファイトをする指揮者 振ると・酸出るドリンク

このごろはやりの終ケツ部 コーダくみ

コーヒーを淹れるベルリン・フィルの常任 サイフォン・ケトル

主人公は大きいのが好み ジャンボ・スキッキ

舞台装置を片付けまくるオペラ ジプシー断捨離

ベートーヴェンが24時間戦った街 ハイリゲインシュタット

楽屋で食事をするイギリスの指揮者 ロジャー・ノリベントン

ももひきにブランケットを羽織るロシアの作曲家 ラクダニモウフ 

大臣が気になるオペラ 辞任す気っき

授業をサボる作曲家 ブッチーに

ロシアの大統領にそっくりなオペラ作曲家 プーチン似

プッチーニがエイリアンを試作した ジャンニ・スティッチ

ずっと待っているハンガリーの作曲家 コナーイ

停留所で待っている楽器 来んとなバス

演奏中にだじゃれを連発する指揮者 ヒエール・フレーズ

記念公演ばかりの指揮者 ガラやん

熱苦しいかけ声でショパンを奏でるピアニスト マズルカ修造

偽チチを隠し通したイスラエルの指揮者 バレンボイン

新内閣の顔ぶれによるオペラ ドジョウバンニ

適度な嫌悪感に包まれたホール きもいホール

音大生が政治活動をする漫画 野田氏官邸入れ

島田紳助がヴァイオリンの演奏をした クロイメル・ソナタ

室伏広治がピアノ演奏に挑戦 ハンマー熊ピーや

お仕置きキャラが登場するラヴェルのバレエ音楽 ダフニスドクロベ

オケのメンバーが我こそはと勇み立つホール 気負いホール

シンガポールでよく聞く交響曲 マーラーヨン

シベリウスが軽くあしらった フンなんでや

カトちゃんの再婚を祝う作曲家 茶は娘が好きー

ドン・パスクワーレが自分に背いた甥エルネストにひとこと ドン・どつくワレ

主人公が絶倫なバルトークのオペラ あかひげ公の城

缶ビールを飲む作曲家 泡出うす・モルツあるど

徳島出身の作曲家 阿波でうす・もーつ鳴門

ベトナム戦争に参加した指揮者 サイゴン・バトル

ヨハン・シュトラウスが天然系の舞曲を作曲 あやせポルカ 

国民新党が推薦するテノール歌手 ホセ・亀井だす

高見盛が気になるピアニスト 前に塩・放りーに

コープにも勤めている指揮者 勤務生協

大当たりな歌手 ドビンゴ

頭皮の脂により毛根が弱くなったチェコの作曲家 ベトるジハダ・透けたな

オケがハーレム状態の指揮者 群れざー・メスと

グリーグが吉野家でバイト ペール・牛丼

実はサイヤ人だった歌手 ルチアーノ・カカロッティ

状況がよろしくないマエストロ チョベリバっけ
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文学だじゃれ

2011/08/19 22:28
不完全燃焼の家族を描いた巨編 カラ満足の兄弟

ドン・キホーテの作者が腹痛に効く薬を持ってきた セロガンデス

ゆるいレトロな花柄ワンピースにタイツ姿のフランスの劇作家 モリガール

森鴎外が今シーズンの成績を聞かれてひとこと 3勝だよう

空中戦が得意なアメリカの作家 ヘディングうめい

ラブ注入するロシアの文豪 ドドスコエフスキー

短冊に願い事を書きまくる作家 たなばた康成

村上春樹がトゥースを連発する主人公を描いた 海辺のカスガ 

同じ手は食わない武士道の作者 二度目いなそう

シェイクスピアが隠し事をする友人に噛みついた おせーろ 

シェイクスピアが親友を紹介した マブデス

なぜか刑事に追いかけまわされる ホシの王子様

スイカを一気に食う俳人 タネださんとこうか

急に老けた 星のおじさま

世論に耳なし芳一を決め込んでいる作家 ラフカディオ・カーン

東北にエールを贈るフランス人哲学者 ミッシェル・フッコー

チョコが詰まった作家 国木田トッポ

鎌倉で入水、玉川上水でも入水した太宰の代表作 つかる

アイルランド出身の作家が調味料を使った お酢で・マイルド

ジョバンニがカムパネルラに金属の価値を教えてもらった 銀か鉄銅による

谷川の小学校の不思議な転校生がしばしば仮病を使った 風邪でまたさぼろう

ゆるゆるの靴下をはくスイス出身の哲学者 ルーソ

シェイクスピアが描いた悲劇の王もプライベートは順調 リア充

やたら競艇場に通うフランスの詩人 ボートレース

やたらマクドナルドへ行くイギリス人作家 シェイク好きや

なぜか醜聞が絶えないフランス人作家 スキャンダール

カミュが肛門科へ行った いぼうぢん

軍医総監や官僚など過剰な肩書を持つ小説家 盛りほうだい

友人から金を借りたフランスの哲学者がひとこと タスカル

ヘルマン・ヘッセが慌てて足元を探した チャリンとした

樋口一葉がグルメリポーターを務めた たべくらべ

日清焼そばを湯切りするフランスの文豪 できトル・ユーホー

太宰治が急な運動でえずいた 走れゲロす

おもちゃの世界に迷い込んだロシアの文豪 トイストリ

人間の心に爪痕を残す太宰治の怪作 人間ひっかく

フランス人女流作家がバンドを組んだ サガンオールスターズ

フローベールが入浴することを告げた フローへえる

理性批判の思想家が首相と会談 カンと

旭化成がドイツ人哲学者の家を建てた ヘーゲルハウス

フランス人哲学者がみそ汁を飲んでひとこと サメトル

遣唐使として大陸に渡った短気な政治家 天平のイラ菅

ドストエフスキーが羽根突きをした 墨とバツ

代助が三千代に生活費を渡した そでから

三島由紀夫が和式便器にまたがった きんかくし

やたらウケる俳人 松尾爆笑

夏目漱石が節電した 我輩はエコである

既出ネタを嫌う俳人 正岡新規

チェコ出身の作家が投資家に変身した カブカ

ジャン・ヴァルジャンが街行く女性たちに目移りした レ・ミセルブラ

親譲りの無鉄砲でひたすら池にロストボールする教師 ボッチャン
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クラシックだじゃれ Vol.9

2011/08/11 00:45
何をしに席を立ったか忘れてしまうオペラ さまよえるおかんたち

お世辞にも美人ではない山ガールを描いた あるぶす交響曲

和菓子が好きな指揮者 おーまんじゅう

微妙にオネエ系のソプラノ歌手 ギリ・デ・カマヤ

渋滞の時に聴くと落ち着く 立ち往生のためのパヴァーヌ

客が全員帰ってもなかなかイスから離れないパート 菅楽器

中学生時代に飲酒も暴力もしたポーランドの作曲家 グレスギ

後ろに引っ張ると自動演奏する チェロQ

新世界の前にある居酒屋 どぼ八

だじゃれ不発を意地でも認めないロシアの指揮者 スベットランノフ

競馬場で悔しがるイスラエルの指揮者 バケンポイむ

コンパでチャラくなったオーストリアの指揮者 好うぃとなー

ブリテンがいつも混雑するコンビニでバイトした レジの回転 

合コンに出席したグリンカのリアクション ぶすやんと二度見ら

台本作家が髪を束ねてみた ロレンツォ・ダ・ポニテ

銚子に乗った炎の指揮者 チバケン

シェーンベルクが久々に熟睡しひとこと きのう寝られた夜

自宅に電気がこなくなったブルックナーがひとこと 停電うむ

マシンガントークが炸裂する作曲家 シャーベルト

アメリカの和食料理人で構成された楽団 ニューヨーク・切るハモにく

ヨハン・シュトラウスがキャバクラの請求書を見てひとこと ボルカ

楽聖がコンロの上にアルミホイルの鍋をセットした ルートヴィヒ・冷凍麺

バンジージャンプで急かされた作曲家の慌てたひとこと 飛ぶゅっしー

椿姫が洗顔した ビオレった

東京でワルツのような揺れがあった 余震・首都らうす

アントン・ブルックナーの合唱曲を歌って踊るユニット ATB48

悪事をたくらむ作曲家 ブラックナー

バッハがすし屋でオーダー シャコぬん

ゆっくりと伯方の塩を振った あらーじお

神童がパチンコで勝った タマでうす・モーカルト

おっぱいが大好きな指揮者 またチチ

ある作曲家のおっぱいを何回かの音楽会で連続して披露する チクビス

ヘンデルが最近売れてきた女優のために作曲 調子のよい貫地谷

シュテファン寺院の鐘を鳴らすのはあなた ウィーン阿久悠教会

堤下と板倉を応援する指揮者 インバルす

夜は探偵として活躍するロシアの作曲家 フリンカ

楽聖が道を見失った ルート逸し

再検査の通知が来た作曲家 尿取る・茶色が過ぎ

フタを反らせてしまうチェリスト フロ煮え

ヴィオレッタがツイッターにはまった つぶやき姫

バストアップに苦悩する交響曲 ブラいち

ロッシーニが連絡手段を問われて答えた  うちにある・TEL 

柳沢慎吾が尊敬する指揮者 アバヨ

ラヴェルの家のトイレが壊れた 水のだだもれ

中国共産党な作曲家 アカでうす・モータクト

激アツのチェリスト フル煮え

こすると重厚な音を立てる 朝比奈たわし

だじゃれが不発な作曲家 スーベルト

出家した 尼でうす・坊主なると

変態マエストロ ハンス・喰うなパンツ物色
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クラシックだじゃれ Vol.8

2011/06/20 23:46
あちきは36番が好きで あリンツ

椿姫を見に行ったら隣席が知人だった アラ・トナリアータ

格納容器の内圧を低下させ破損を防ぐ作曲家 ベント弁

SMマニアな作曲家 裸婦馬に乗る

心に吸い付くような交響曲 タコのきゅうばん

ダチョウ倶楽部がウィーンで新年を祝う 言うイヤーコンサート

ホール付きの別荘 ライプツィヒ・セカンドハウス

豊島区限定で活躍する作曲家 ショ巣鴨ヴィチ

合奏協奏曲略して 合コン

仕事がないピアニスト フリー土日・グルダ

アイーダ第2幕第2場で大きなスピーカを積んだ車が登場 街宣行進曲

1900年代半ばテレビの技術革新に驚いた指揮者がひとこと カラーやん

シューベルトができ婚を祝福 ローサ産んで

團伊玖磨が小沢元代表に捧げた童謡 ぞうはん

ショパンが漢字を間違えて曲のイメージが変わった 小太のワルツ

なんだかよくわからないモーツァルトの交響曲 ハテナー

大きさの割に音が鳴らない弦楽器 チョロ

サン=サーンスが自慢の交響曲を答えた さんばーんす

よく整体へ行くイギリスの作曲家 ほぐすと

殿様ごっこで切腹を命じる作曲家 ハラキレフ

巨匠がフジテレビに入社 かるべーム

よく追突事故を起こす作曲家 掘るすと

クレヨンシューちゃん 野ばらしんのすけ

やたら周囲に配慮するドイツのバリトン歌手 メッチャー=キーツカウ

Yes,we can ! を連呼する指揮者 オバマ政治

サラサーテがコーヒーにこだわり過ぎた すごい煎る焙煎

ガーシュウィンが連れ込んだ女性の素顔を見てやる気をなくした ラブホに・イン・ブルー

祈りを込めつつもなんだか気になる曲 アレ・マニア

風俗での思い出を語る作曲家 ある晩・ヘルス

ヴァイオリンの首席奏者が演奏をぶち壊した コンサートバスター

赤いきつねと緑のたぬきが好きなスイス人作曲家 マルタン

ロドリーゴが登場した ギタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!!

頭痛をバロック! バッハリン

アルビノーニが痛飲した アビルヨーニ

メルトダウンを起こしそうなハイドン88番の演奏 チェリのV字

ネタざかりの作曲家 イケベん☆パラダイス

ラヴェルが想いを寄せる女性に強要した ホレロ

ブルックナーの交響曲をやたら長く改訂 ノヴァース版

リヒャルト・シュトラウスが原発を心配した ドン!不安

ロシア人指揮者が黒ビールを飲み過ぎた ゲロギネス

台風が音楽学校の公演をねぎらい勢力を弱めた 音大定期乙

ドヴォルザークがギャル曽根に捧げたピアノ曲 ユーモウレツ食う

むかし鹿島にいたモーツァルト アル神童

栄養価のある名曲 C1000状のアリア

バッハが一家総出でカラオケに行った 待たな十何曲

指揮者が熱演で意識がもうろうとした こんだくったー

ジュリアナでかかるストラヴィンスキーの楽曲 ギャルの祭典

メンデルスゾーンが厚生労働省の前で声を上げた 就業改革

古い方法で美肌を期待するオランダの鍵盤楽器奏者 レモン貼ると

アイーダに登場するエジプト国王がコンパを盛り上げた チャラオ
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クラシックだじゃれ Vol.7

2011/05/31 00:10
グラズノフはあまりジョッキで飲まない グラス飲む

リストの演奏仲間のトレードマーク リストバンド

琵琶と尺八のイカれたサウンド のうてんパー・ステップス

女心がわからないスペインの伝説上の放蕩児 ドン・カン

大五郎を乳母車に乗せながらツアーする指揮者 ちゃん・ミュンフン

鍋料理にこだわりを持つ作曲家 まずカーニ

明治のマスコットキャラに抜擢されたドイツ人作曲家 カールおるふん

指揮台に立つのを嫌がる作曲家 振らんく

やたら武者震いするドイツ人作曲家 ブルッフ

ルパンIII世が愛聴するプラハの録音 ワルターP38

バッハが他店の方が安かったとクレーム 特価あったとフンカ 

ベートーヴェンが帰省するため休暇を取った ボン休み

オルフが焼肉屋でメタボな絶叫 カルビあぶらーな

メンデルスゾーンとチャイコフスキーが博多を旅行 メンチャイコ 

ショスタコーヴィチが旧帝都で女性へのプレゼントを検討 レギンスなーど

ウェーベルンが金太郎を読んでひとこと マッサカリや

フランス人作家サガンがパニクった ブラームスはおすぎ 

禁断の完全8度 1オクタブー

ハイドンがチャイコフスキーをぼこぼこにした チャイコ連打

ニールセンがNTTのブロードバンドで演奏を配信した フメッツ光

ローマ帝国の時代が好きな作曲家 コダーイ

シューマンがオナラをした じゅうまん

バッハがひいきにしている横綱 たいいほう

ドビュッシーが新大阪で待った 次のひかり

ポリリズムのピアノ曲 亡き王女のためのパフューム

宮崎国際音楽祭でシンフォニック・ダンスを演奏 マンゴー! 

カーステで荒城の月が流れる 滝レンタカー

ジャイアンの妹が好む チャイ5

N響アワーで下ネタを連発 スケベ晋一郎

女性歌手が上半身裸ではしゃぐオペラ ウィンザーの陽気なにゅうぼうたち

意外に評判が良くなかったプロコフィエフの交響曲 五点交響曲

コンヴィチュニーが目標をたてた 今期中に 

現代音楽を愛するプロレスラー 無調ケージ

木枯らしどころではないショパンのエチュード 五十嵐

マーラー第1番の第1楽章が終わるとフラワーアレンジメントが始まった 花のショウ

やたら謝るドイツの作曲家 スーマン

ひざ、腰、楽チン、コンドラシン

草野球でやたら三塁を守りたがる指揮者 サードゆたか 

スッペがデートで恋人に問いかけた なにスッペ

女性に人気のフランス人作曲家 ビデー

コンサートホールにいるプロレスラー 聴衆力

剣の舞 ハチャメチャヤン

シェへラザードの今夜の話が終わった 締めデザート

プリマドンナが礼を言った ナクソス島のアリガトネ

そのピアニストの音色を聞いてドングリを投げつけた キレりす

ピアニストが路上で職務質問された 回り中の・ポリに

オランダ人が身長を少し高めに言った サバ読めるオランダ人

ブラームスの交響曲第2番を聞きながら ブラ2途中下車の旅

えらいがんばっとるバロックの作曲家 キバルディ

コナンがマエストロの家に向かった メータん邸
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クラシックだじゃれ Vol.6

2011/05/16 00:58
霊長目が活躍するサン=サーンスのオペラ サルさんとゴリラ

総督リッカルドと妻の恋を知った秘書レナートが総督に迫った 顔面ぶとうかい

ヒンデミットがアメリカ人歌手の楽屋出口で構えた ガガ待ちす 

シューマンが当時の日本に捧げたピアノ曲 トノにケライ 

ベルギー出身の作曲家がソーセージを抜いた棒で指揮した フランク振ると

ベルリオーズのストーカー行為がエスカレートした パンストの強奪

バッハから電話を受けた音楽家がいいとも!と返答 テレマンショッキング 

ワーグナーと不倫してもそんなの関係ねぇ! コジマ

ムソルグスキーがJRから東急に乗り換えた ムサシコスキー

だじゃれの祭典 ラ・フォル・すべルネ

スメタナがツイッターでトイレに離脱することを告げた 漏るなう

シューベルトがコマネチをした リートたけし

マスネがエガちゃんのために作曲 タイツの迷走曲

とりあえず最初にどうあるべきかを語る作曲家 マズネ

ロシア人作曲家が盆踊りに参加した ショス炭坑節

バルトークのピアノ協奏曲第3番をかけたらゴキブリがひっくり返った バル3

ワルツを聴いてミスショットしたゴルファーが八つ当たり 打つ悔しき青木どなる

ニューイヤーコンサートでラデツキー行進曲を聴いた後に ハネツキー

ファリャがカラオケで「太陽がくれた季節」を熱唱した 青い三角帽子

すき家のCMにリストの前奏曲が起用された ゼンショー曲

大竹さんがリスト、サン=サーンスらと結党 しのぶ党

実はクライマックスが火の車 家計交響曲

ヘンデルがチョコ食い過ぎた 応急の鼻血の音楽

マーラーがホンダの車でドライブ さすらうアコードの歌

TOKIOメンバーのソロデビューをマーラーがプロデュース 太一の歌

報酬が激安のシンフォニー 千円の交響曲

マーラーの上半身が魚になった ギョジン

甲子園の内野席と外野席の間で演奏される アルプス交響曲

汚染された冷却水を除去するテーマ 湯漏れすくう

ワーグナーがモンスターエンジンのコントをまねた 神々の戯れ

ストラヴィンスキーが奈良を訪れて感激のひとこと ペットにシカ

山ちゃんとしずちゃんがミュージカルに挑戦 南海キャンディード

モーツァルトが低迷する野球チームの問題を指摘 シュビダー

ベートーヴェンがピアノソナタ第32番を弾いて食中毒になった Op111

チャイコフスキーが幻想曲の感想を尋ねた フマンデスカ・ダ・リミニ

ドン・アルフォンソが腰痛に悩んだ 腰・不安・取って

少しだけ出だ ウン・ポコ

女性歌手がサービスしてくれる風俗店 ソープランノ 

枝野長官の耳のサイズは完全8度 1ミミターブ

チャイコフスキーがアダルトビデオの処分に苦悩し作曲した交響曲 秘蔵

なかなか指揮者の指示を聞かない楽団 シカト交響楽団

大作曲家の家にゴキブリが出現 あぶらーむす

チャイコフスキーが自作の作曲料金を聞いて驚いた 1812円

イタリアのオペラ大家がご飯のお供を作った じゃこの・プッチ煮

農夫ネモリーノが宮里プロのエアーサロンパスをかけた 藍の妙薬

フランス軍の連隊で育った娘マリーが全裸で走った 変態の娘

パパゲーノが厚生労働省から火を通すように言われた トリ刺し

17歳の青年貴族オクタヴィアンを追いかけ回す オバタリアン

トゥーランドットが投げた球を見事に打ち返した カケフ王子

早稲田に通うアメリカの作曲家 高田のバーバー
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クラシックだじゃれ Vol.5

2011/05/05 23:20
他人のつぶやきに興味がないピアニスト フォロ3つ

エルガーが試着してしつこく聞いた 衣服どうどう

シューマンのかる〜いピアノ曲 チョロいペラい

古代ギリシアの姫君がやけ食いした えれえ食っとら 

ロシア人作曲家が会心のショットをしてひとこと グリーンか

テッチャン、ミノ、マル腸を食べると響きがロマンティックになった 情熱ホルン

ギニュー特戦隊に所属するピアニスト グレン・グルド 

ピアノの音色流れる貯蔵庫で酵母を活性化 蔵ビーア

シベリウスが東北へ向かった ボンランティア

CMに起用されたシューマンがにこやかにひとこと シウマンの崎陽軒

当たり前だが生演奏が盛んなホール ライブ付き・ゲヴァントハウス

17号と18号を吸収して完全体になる指揮者 セル

やたら準備が頓挫するオペラ セビリアのリハ中止

キリル・コンドラシンが演歌歌手に転身した キリル・香田晋

ショスタコーヴィチが積極的にカプリッチョを作曲しなかった理由 タコのカルパッチョ

海猿がメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を演奏した 海上ホ短調

何もないのにどこからかベルリオーズの音楽が聞こえてくる 幻聴交響曲

レンスキーとの下ネタの決闘で勝利 エロゲニー・オゲーヒン

ストリートファイターUの関取がベートーヴェンを聴いた エグモント本田 

ベッドの上で激しいピアニスト キーシム

ベートーヴェンが同じ序曲ばかり演奏した 懲りおらん

つい失礼してしまうコンサートホール 東京オナラシティ

ラヴェルが演奏したらラピュタがえらいことになった ラ・バルス

レスピーギが高知のイベントに曲を提供した 龍馬の祭り

シューベルトがSEX MACHINEGUNSの「みかんのうた」をシャウトした みかんSay!

フランケンがベートーヴェンの弦楽四重奏曲に挑戦 大フンガー

ズッペが《軽騎兵》がヒットしてひとこと 景気ええ 

やたら他者の介入を拒む作曲家 ブロックナー 

公爵に仕える道化がトイレに芳香消臭剤を置いた ピコレット

レオンカヴァッロが出費をしぶった どうけち

ジャンニ・スキッキがアイドルになりきった ジャニーズ・キンキ

難波千日前の上方演芸資料館にかつらが展示された バッハかみがた

アルビノーニがモテる中年女性向けに作曲 アデージョ

リストがひたすら感謝をこめて作曲 ダンケ交響曲

確かに詩人が登場する ラ・ポエーム

黛敏郎が関西の姉に捧げた ねーはん交響曲

R・シュトラウスがスーパー銭湯を経営 ええ湯の商売

なぜか不評なピアニスト スタニスラフ・ブーイング

草野球で投打に大役を任された作曲家 ヨバン・先発じゃん・バッハ

ヨハン・シュトラウスUがぴちぴちのタイツをはいた こんもり

演奏中にやたら誹謗中傷が飛び交う大曲 雑言ミサ曲

ハイドンがウィッシュを連発するロックミュージシャンに楽曲を提供 DAIGO連打

チャイコフスキーが相撲部屋に入門した理由 ちゃんこがすきー

オペラの主役となる女性歌手が蚤の市に出品した フリマドンナ

悲愴をヒーソー!という作曲家 チャイこすぎー

チャイコフスキーがM-1で活躍した漫才コンビを応援した スリム行進曲

グリーグがインカ帝国にロマンを抱いた ペルー・キュンと

唄うと通じがよくなるイタリアの歌 カンチォーネ

モーツァルトが交響曲第31番と36番を組み合わせた パンツ

ヘンデルがうっかり有料サイトを閲覧した 明細や
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クラシックだじゃれ Vol.4

2011/04/25 22:41
息子の頭の上に載せたパソコンを矢で射抜くオペラ ウィリアム・デル

下着を補強して演奏する楽団 ブラズバンド

それはやりすぎだろう ティル・オイレンシュピーゲルの誘拐ないたずら

ハイドンが通っていた学校 共学

カラオケでカルメン'77を歌ってウケをねらうフランスの作曲家 ウゼー

神童が大きいのをした もう詰まると

石原裕次郎、小林旭らがマーラー交響曲第2番の合唱に加わった 日活

マーラーの交響曲が料理番組に使われた クック版

韓国料理にはまったロシアの作曲家 プルコギエフ

モーツァルトが人気アニメにピアノ曲を提供 まるこ行進曲

方位発見番組 N極アワー

モーツァルトがシャンプーの後に作曲した交響曲 リンス

犬のフンを踏んだかをやたら気にする指揮者 踏むと便かなー

ツイッターのコメントにやたらウケる指揮者 ブルーノ・ワロタ

伯爵とフィガロの間で心が乱れた スサンダ

子供に指揮を教えるロシアの指揮者 デキルカーボク

弦を爪ではじくと実が出た ビチィカート

フィガロと結婚を予定している小間使いが謝った スマンナ

フランスの王女エリザベッタを父に奪われとげとげしくなった王子 トン・ガルロ

オッフェンバックがかよう風俗店 しごくのオルフェ

豚舎から熱狂的な大合唱が 歓喜のブタ

バッハがシャンパーニの塔に潜む盗賊を讃えた カンダータ

やたら舌使いがうまいイタリアの作曲家 モンデベロディ

ファミスタが大好きなバビロニアの王 ナムッコ

電気ケトルを取り戻して救済をもたらす若者 パルティファール

吹くと揺れる楽器 震うと

土から生まれたどんな形にも変形する音楽の父 おばけのバッハパパ

アメリカが嫌がる巨大な金管をソ連がカリブ海に持ち込んだ チューバ危機

やたら露出したがる作曲家 スグダス・マーラー

交響曲のチチ ヨセテ・パイドン

味覚が麻痺した指揮者 食うと・マズあ

歌手が歌のテンポを変えすぎて関節がはずれた アゴーギク

演奏中にはだけてしまうポーランドの舞曲 ポロリーズ

さまざまな事情を抱えているピアノ作曲家 フレデリック・諸般

うっかりはみ出してしまうロシアの作曲家 ポロティン

やたらカードゲームで戦うのが好きな指揮者 UNO攻防

リヒャルト・シュトラウスが激太りした メタボのフーセン

演奏中ついカメラに向かってオーバースローするインド人指揮者 ズームイン・メータ

男女の情愛を語りあかすイタリア人指揮者 ジュゼッペ・シッポリ

惑星ばかり演奏する指揮者 ホルスト・主体

指揮台でじゃんじゃんやかましい指揮者 エリアフ・シンバル

舞台裏からかすかに木管の音がする トーボエ

並外れたスケールの練り物 ニーベルングのちくわ

モーツァルトの姉が薄焼きパン作りに挑戦 ナン練る

子供の頃から大人のような楽才を発揮していた指揮者 マセール

やたら軽口をたたくハンガリーの作曲家 ぺら・バカトーク

やたらブランド物をねだるヴァイオリニスト ヴィトン・クレーメル

テレビで第九を見ていてせっかくの合唱のところで声がかかった 風呂いれ!

インド人指揮者が女性の素顔を見てひとこと スッピンめえた

フィラデルフィア管弦楽団が破産を申し立てた オーナンディ!
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クラシックだじゃれ Vol.3

2011/04/16 20:58
白鳥たちがひやひやしながら踊るバレエ作品 薄氷の湖

古くなった原発の炉心溶融を警告したモーツァルトの歌劇 老朽からの融解

蝶々夫人の取材のため長崎本線に乗り換えたプッチーニがひとこと 鳥栖か

ホールの中では守備力が2倍になる スカラ座

ワーグナーの攻撃力が2倍になった バイキルト音楽祭

カラオケでベルリオーズがやたら絡んできた イタリアのハモるど

ブラックマヨネーズ小杉がナレータを務めた ヒーハーと狼

モーツァルトに嫉妬するタレント サトエリ

「JIN -仁-」の80カ国放送をガーシュインが祝福 パリでもアメリカでも仁

スメタナが左官に転職した モルタル

ボヘミアで良い物件を探していた作曲家がひとこと 住めたな

楽章の終結部でどかたが技巧を披露した ガテンツァ

フィガロと結婚を予定している小間使いが手を抜いた ズサンナ

鍵盤を押すと小刻みな震動で刺激してくれる楽器 バイブオルガン

ドミートリイ・ショスタコーヴィチが手際良くタコを調理した 泥・身・取り・塩・酢・タコ・ミンチ

ペンデレツキがメイド喫茶にはまった ツンデレすき

追い詰められた作曲家 アマデウス・もうツーアウト

ヴァルハラの菜園が天候不順に見舞われた 割れキュウリ

ヴォータン、アルベリヒ、ローゲが製麺工場でアルバイト ラインのおうどん

アッコさんが指揮者を応援した アーノンクルは!ハッ! 

ジキルが薬を飲んで音楽家に変身した ジキルとハイドン

ウソがヘタな作曲家 ばれトーク

モーツァルトがラブ注入した たの神童

ニコニコ動画にアップされた三大テノール プラシド・ドワンゴ

モーツァルトが前半10分に先制ゴール ドン!序盤に

バッハが思いきり股間を痛打した マタニ受難曲

バッハが演奏する姿を収めた写真集を出した 平均律グラビア

ハイドンが電力不足に一石を投じたオラトリオ 電池創造

アメリカの作曲家がまゆげを一本につなげてみた ジョージ・我修院

英徳学園高校の牧野つくしがピアソラにはまった 花よりタンゴ

沖縄にあるアコムの小型自動契約機 アイネ・クライネ・那覇のむじんくん

西城秀樹がマーラーの交響曲第6番を指揮した ヒデキ的

演奏しているとやたら腹がへる楽曲 ハングリー舞曲

ドヴォルザークが通天閣界隈で交響曲を作曲 新世界より

楽団と楽団の間でいくさが始まった オケはざまの戦い

バッハがアメリカ人演歌歌手に独唱曲を提供 無伴奏ジェロ

こんなときに手を差し伸べてくれる作曲家 支援ベルク

遺伝子の組み換えでできた楽器 バイオりん

ベートーヴェンがテレーゼを熱烈に想うあまり不安になって聞いてみた エロいか?

理想のどんぶりものを追い求めて遍歴を重ねるスペインの伝説上の人物 丼ファン

麻雀でいつもロンで上がれないイギリスの作曲家 フリテン

トータルテンボスが超絶技巧のピアノ曲に挑戦してひとこと ラ・ハンパねら

ベートーヴェンがバイトで王将のホールスタッフを務めた コウテイ!

昼時にドビュッシーが自らを景気づける楽曲 ぼくちんの午後への前奏曲

極めて弱い魚 ピアニッシシャモ

メンデルスゾーンが開業したラーメン屋 麺出ますゾーン

好色で太鼓腹の老騎士が選挙用のポスターを渡された 貼るスタッフ

居酒屋ですっかりできあがったワーグナーがハイボールをオーダー トリスたんをいそぎで

トイレで流れる音楽 便出るすゾーン

ヴェネツィア領キプロスの総督が政治的暴力を振るうオペラ おテロ
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クラシックだじゃれ Vol.2

2011/04/03 13:37
ホフマンが次々と恋をするもののいずれも破局するオペラ ご不満物語

巨人ファンのオクタヴィアンがスポーツ新聞で楽しみにしている はらの記事

ヴェルディが寿司屋で後輩にごちそうした いる?トロばとれ

洋服売り場で男性用の上着シャツを要求する指揮者 くれメンズブラウス

バルトークがかなりきわどい舞台音楽を発表 中毒の不思議な薬品

パッヘルベルが代表作を仏教風にアレンジ カンノン

ドMな作曲家 やん♪しばりうす

次の国政選挙でどこに投票すべきか考えている指揮者 シャレデ・ミンシュ

ほうき職人の息子とロックミュージシャンが森で迷う物語 ヘンゼルとGLAY TERU

並び順を間違えるとダーをしたくなるシューマンの交響曲 《春》1番

ボロディンが龍馬にダンスミュージックを提供 脱藩人の踊り

右から左に受け流す指揮者 リッカルド・ムーディ

ラヴェルがなかなかおもしろいことを言わない相方に鋭いつっこみ ボケろ

クロード・ドビュッシーとモーリス・ラヴェルがビールを酌み交した クロ・ラヴェル

蒸気の流量を計測するのが得意な指揮者 タービン・メーター

花を栽培していたストラヴィンスキーが感動のひとこと 春に咲いてん

はげ山の一夜を作曲した勢いで む剃るぐスキン

アブないホームページを告発された楽団 サイト・キケン・オー消すとな

ハロプロに所属していたオペラ作家 プッチモーニ

仏教徒がベートーヴェンの交響曲第9番を熱唱 合掌付き

優勝逃す度にあの時を思い出す楽器 来ん虎バース

バッハが有名アクションフィギュアに音楽を提供 G.I.ジョーのアリア

ベルギーの指揮者が丈夫な木製家具を購入 アンドレ・くぬぎタンス

ベートーヴェンがマクドナルドでオーダー フィデリオ・フィッシュ

赤ちゃんの肌にも優しい楽器 弱酸性ヴィオラ

やたらブラウンでコーディネートするロシア人作曲家 茶色がすきー

なかなか決断せずもじもじした人にベートーヴェンが問いかけた 割りとしたいん?

のこぎり、かなづち、かんな、ドリルのための交響曲 大工

ベートーヴェンがウィーンの馬車を優待料金で利用 楽聖割引

ベートーヴェンが大阪の自然に触発されて作曲した交響曲 でんねん

モーツァルトの肖像画からは音楽が生まれてこない 絵に描いたモツ

譜面台から放射線を検出 プルトニウム

やたら遁走する忍者 フーガ小太郎

阪神往年の名キャッチャーを主人公にしたコダーイの歌劇 ハーリ・矢野捕手

バーンスタインが内閣支持を表明 菅でいいど

やたら生協で買い物する指揮者 コープマン

山奥で修行をしていた隠者が二トリで客に説教 ツァラトゥストラは家具語りき

女性に心のこもった下着をプレゼントする大作曲家 ブラ編むす

魔弾を使った狩人が中古車販売店に転職 セダンの車種

コージー冨田のファンは皆こうしたもの コージー・ファン・トゥッテ

エヴゲーニイとヴラジーミルがネギで決闘するオペラ エヴゲーニイ・おネギ

公爵に仕える道化リゴレットが禁煙に挑戦 ニコレット

墨田区の施設に心を奪われた とりこにーホール

旦那が町の首長を務めている 町長夫人

やたら資生堂のヘアケア製品を愛用する姫 ツバキ姫

ジプシー女がペットの亀にかわいい名前をつけた カメルン

ヨハン・シュトラウスが阪神ファンのために作曲 トリッチ・トラキチ・ポルカ

やたらゆるキャラを攻撃する人形 きぐるみ割り人形

弦の上を鮮やかにスベるヴァイオリニスト ショージさやか

気に入ったアカウントしか見ない作曲家 リスト
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クラシックだじゃれ Vol.1

2011/04/03 13:34
焼肉が大好きな指揮者 カルビロース・クライバー

野党からの質問に首相が必死にピアノ演奏で答弁するマンガ のだめ・菅くたびれ

コリン星から来た指揮者 ゆう・こりん・デイヴィス

こんなときにだじゃれをつぶやきまくるピアニスト ふキーシン

威風堂々とサスペンスを語る推理作家 エルガー・乱歩

やたら徳島を散策したがるオランダの指揮者 ベル鳴門・ハイキング

スイスのオケを長年率いるあまり腰痛に悩む指揮者 エルンスト・アンメルツ

情熱的なあまり恋人を舐めまくってフラれる作曲家 ベロリオーズ

完璧なテクニックと強靭なタッチでシャッターを押す写真家 篠山キーシン

どこのどいつかわからない指揮者 あんたは・どなてぃ?

合成樹脂の一種であるポリエチレンテレフタレートでできた指揮者 ペットラトル

車上荒らしをする人形が登場するバレエ作品 クルマ割り人形

男性なのに若い頃からおばあさんみたいに呼ばれるアメリカの作曲家 バーバー

とりあえず楽器をなめてみる楽団 ベロリン・フィル

草野球でやたら一塁を守りたがる博士 ファウスト

得意のベースでメンデルスゾーン4番を演奏するタレント イタリア長介

やたら小太りの歌手を起用するオペラハウス メタボ豆タンク歌劇場

ドイツ地方都市の一行が日本を観光するオペラ ニュルンベルクの参りました神社

携帯電話の販売店で店員に詰め寄る指揮者 あるだろう・二機種

二つのものに挟まれたオペラ アイーダ

世界のナベアツがもっともアホになる作曲家 サン=サーンス

ヨハン・シュトラウスが商売人への転身をツィッターで宣言 美しくあきんどなう

極小化したフランス6人組の一人 プーランクトン

超絶技巧でキーボードをたたき次々と行程をおさえる旅行会社 フランツーリスト

やたら海路で移動したがるピアノの詩人 船で行く・ショパン

プロコフィエフが交通安全のために作った交響組曲 黄いは注意

フランス人作曲家が院長を務めるやたら前向きな美容整形業者 イエス!デュカス・クリニック

吉本と提携したイギリスのレコード会社 ほんまデッカ

回転ずしで変イ音を立てながら小皿に注がれる煮詰め あまだれ

オルガンの神業を披露する農協職員 J・A・バッハ

シェーンベルクがTAKURO、TERUらのために作曲した グレイの歌

剣の舞でやたら蜂を駆除する作曲家 アラム・ハチ取り屋

名古屋のサッカーチームを応援する管楽用の楽曲 グランパスティータ

ライン川を情熱的に泳ぐ人面魚 ロベルト・シーマン

やたら自分のブログを宣伝する指揮者 ヘルベルト・ブログしてっど

ツイッターで手当たり次第に謎をかけまくるお姫様 トゥーランbot

やたらシューベルトの歌曲ばかり選曲するフィギュアスケート選手 浅田魔王

音大生がピアノを練習せずに怠けるマンガ 寝だめアカンタレ

ついお気に入りボタンを押してしまう楽器 ふぁぼっと

携帯電話を手放せない指揮者 ハンディフォン・ビューロー

昼用と夜用にヴァイオリンを使い分ける作曲家 サラサーティ

留年した外国人女性を慰めるピアノ曲 エリーゼとタメに

青年が旅先でギターに恋する物語 伊豆のロドリーゴ

やたらリムーブする作曲家 リム好きー=コルサコフ

荷物を配送するのが得意な作曲家 フェデックス・メンデルスゾーン

パパゲーノが所属する芸能プロダクション マテキ芸能社

R・シュトラウスの携帯の電波が思うように入らない auの障害

ピアノがやたらうまい泥棒 アルセーヌ・ショパン

山奥で修行をしていた隠者が原発を視察 ツァラトゥストラは核語りき

指揮台で軽快なヒップダンスを披露する指揮者 KARAやん
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ハイリゲンシュタット

2011/01/11 00:40
 平成14年1月4日、ウィーン北部に向かう。ハイリゲンシュタットはベートーヴェンが「傑作の森」時代を過ごした場所として有名で、多くの代表的な楽曲がここで産み出された。ベートーヴェンはヨゼフ・ハイドンに師事する為故郷のボンを出て、このハイリゲンシュタットに居を定めた。界隈で3度転居したのでベートーヴェンの家は4軒残されている。ウィーン市北端に位置するこの地域は残雪が多く、雲一つない快晴だったがとても寒かった。暖房に眠気を誘われ路面電車に揺られること数十分、楽聖時代の面影は薄く、周囲は高級住宅街に様変わりしていた。19世紀初頭、楽聖の6番目の交響曲は「田園」と綽名された。モチーフとなった散歩道が今でも残されている。30代に入り難聴が悪化した彼は耳が聞こえるうちに「自然」の音を脳裏に焼き付けようと考えた。澄んだ空気、川のせせらぎ、鳥のさえずり、嵐が過ぎた後暗雲の間隙から刺す光。「田園」には自然の表情が詰めこまれている。
 散歩道は木漏れ日にあふれ、すがすがしい気分を提供してくれたが、第二楽章のモデルになった「小川のせせらぎ」は申し訳なさげに細々と流れていた。散歩道の途上にあるベートーヴェン・ルーエにはベンチとともに楽聖の胸像が据えられていた。散歩道の終端からしばらく進むといつしかハイキングコースに踏み入っていた。グリンツィングへ向かうべく西へ向かおうとしたが裏目に出た。最初西に向いていたコースは、ブドウ畑に覆われた丘の中腹になるとすっかり東を向いていた。町からも遠ざかっていくようだ。一面の積雪の中、引き返すには進み過ぎていたので半ば自棄に進むと、ウィーン市内を一望できる高台に到達した。付近の看板に地図が記してあった。このまま進むと先刻の散歩道に戻られるようだ。山歩きには慣れているが、見ず知らずの雪道を2時間ほど歩いた。後で知るが、ここがいわゆるウィーンの森で、冬歩く場所ではなさそうだ。
 やっとの思いで住宅街に戻り、入り組んだ狭い路地を縫うように歩いた。先ほど回り損ねたいくつかのベートーヴェンの旧宅を回った。難聴を病んだベートーヴェンが1802年に遺書をしたためた「遺書の家」、交響曲第3番「英雄」を作曲した「エロイカハウス」、「田園」を作曲した「プファー広場の家」が残されている。中には門扉が閉ざされている家や、長時間手入れが行き届いていない放置された部屋もあった。ちなみにウィーン大学向かいにあるパスククァラティハウスもベートーヴェンが住んでいたアパートとして有名。1804年から08年と1810年から14年までの二回居住し、交響曲4番、5番「運命」、7番、8番、歌劇「フィデリオ」を作曲した。こちらは結局行かなかった。
 枯れた並木道をひたすら西へ歩き、今後こそグリンツィングへ向かった。体は芯から冷え切っていたが最後に行きたい場所があった。ドイツ・ロマン派の音楽家グズダフ・マーラーがそこに眠っている。マーラーの交響曲は1枚のCDには収まらないほど長大なものもある。その音楽は深遠で、神、愛、死など難解なテーマが描写されている。生前自ら「やがて私の時代が来る」と予言し、死後50年ほど経った20世紀後半に世界的ブームが到来する。時代が彼の芸術に追いついたのだろうか。路面電車のグリンツィング駅はロータリーになっていた。地図と現在位置の整合が取れなくなり、道行くおじいさんに聞いてみた。おじいさんは高齢ゆえ足元が不如意だ。英語で呼びかけると「私は英語ができない」というしぐさで、そばにいたお孫さんと思われる7、8歳の子供に応対をお願いしていた。老人が孫に救いを求める光景が微笑ましい。刹那お孫さんの語学力に虚を突かれた。少年は英語に堪能で、目的地を流暢に説明してくれた。どうやらこの階段を上った高台にあるようだ。丁寧にお礼を言い、階段を上ると果たして広大な墓地が広がっていた。丘陵一面に墓碑が並んでおり、目当ての墓の在処がかわからない。東洋人らしい人がいたので声をかけると偶然日本人だった。おじさん3人組もマーラーを訪ねて来たようだ。そのうち一人が妙に小澤さんに似ていたので印象に残っている。小澤さんは3日前に東洋人として初めてニュー・イヤー・コンサートの指揮台に立った。満更人違いとは言い切れない。いずれにしてもまさかの日本人。その奇遇に驚いたが、寒さで憔悴していた私は必要以上に話をする気になれず、墓を確認した後すぐに別れた。墓地を出るときにわかったが、階段を上って入ったのは裏門だったようだ。立派な門が設置された正面玄関には著名人の墓を記した案内板が立っていた。
 旅の最後をマーラーで締めるとは我ながら粋な計らいだ。ホテルへの帰路、明日ウィーンを離れることがしきりに残念に思われた。
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シューマン

2010/10/11 19:24
 ロベルト・シューマンが1834年にライプツィヒで創刊した「音楽新報」を読みました。もちろんドイツ語の原文ではなく、岩波から『音楽と音楽家』と題し発刊されている訳本です。表題のとおり当時の音楽と音楽家をピックアップし、批評を通して世に紹介するものです。「音楽新報」は幾人かによって執筆されていましたが、創刊から数年間はシューマンが記事の多くを手掛けており、本著にはそのシューマンが執筆したものが執筆年代毎にまとめられています。なお、「音楽新報」は現在も刊行されており、権威ある音楽雑誌としてその役目を継承しています。
 ベートーヴェン、シューベルトが没し、俊英メンデルスゾーンが名声を轟かせ、新進気鋭のベルリオーズ、ショパンが楽壇に第一歩を踏み出した時代。やがて、ワーグナーを中心とした後期ロマン派がにわかに台頭する中、正統なドイツ・ロマン派を継承する若者としてブラームスが旭日の片鱗を覗かせる瞬間まで、批評活動は続きます。シューマンは時に仔細に譜面を解析し、時に楽曲が放つ主張、潜む魂の存在を訴えながら筆を走らせます。この時代にあって、既に大バッハの地位が他のバロック音楽家を押し退け、不動のものになっていることに驚きました。逆に当時を席捲している大家で、今日耳にすることがない名前も多数あり、時代の流れの恐さを感じます。
 新しい音楽家たちを次々と楽壇に紹介した功績は、シューマン自身が創造した楽曲と同等に影響を遺しているといえます。正統なドイツ・ロマン派の系譜に立脚する視点により、今日から見れば狭い価値観で論じられている箇所も否めません。しかしこの偏見(悪い意味ではない)にこそ、ドイツ・ロマン派の化身といわれたシューマンが守りたかったもの、主張したかったものの核心が見られるように思います。バッハ、ベートーヴェンへの畏敬、シューベルトへの親愛、メンデルスゾーンへの信頼、ブラームスへの嘱託、これらのバックボーンを考えた時、その後、ヨーロッパの音楽界が、必ずしもシューマンの指す方向に発展しなかったことは歴史が示す通りです。
 私はシューマンの楽曲の中で、その本分であろう幾多のピアノ曲を差し置いて、チェロ協奏曲を好みます。表面的な感情を衒うのを嫌った晩年のシューマンならではの渋い円熟味です。

 平成15年10月7日、食事を済ませボン市街地のやや西側に位置する旧墓地へ行った。ここにシューマン夫妻の墓がある。南端の入口まで距離があり、敷地の外周を歩いた。すぐに見つかるのか訝りながら横目に歩いていると、突如頭の中に「ライン交響曲」の颯爽とした冒頭主題が閃いた。目指す墓がこのあたりにある予感がした。鉄柵越しに中を伺いながら、歩調は自然と速くなった。濡れた砂利を鳴らしながら踏み入った玄関には、著名人の墓碑を示す案内板が立っていた。ブリキ製の看板には簡素な地図が描かれており、雨ざらしのせいで随所が錆びていた。迷わず地図が導く墓碑へ進む。すると先ほど外周で楽曲が閃いたあたりに、白亜の墓碑が建っていた。天使と白鳥が彫刻された頑健な石塔の上部には、シューマンの横顔を模ったレリーフがはめ込まれていた。ウィーンで見たどの墓よりも大きく立派に見えた。イ短調協奏曲やトロイメライなど多くの名作を生み出した「音楽の詩人」は、植え込まれた花に彩られ妻のクララと並んで眠っていた。
 翌日ケルンへ足を延ばしたのち、夕方再びボンへ戻る。もう一箇所行っておきたい場所があった。シューマンが最晩年を過ごした家だ。前日タクシーの運転手さんから滞在しているホテルの近くにあるとの情報を得ていた。ホテル前を素通りし、教えてもらった方角へと歩いた。運転手さんの話では5、6分だったが、結局ホテルから1kmほど離れており、迷いに迷って20分ほどかかった。車で5、6分だったのだろうか。途中それらしき建物が見つからないので町の人に何度か尋ねた。道路の向かいにいたお兄さんは、キョロキョロしている私を見て、大声で「シューマンハウス?向こう!向こう!」と教えてくれた。このあたりをうろうろする外国人はシューマン目的以外には考えられないのだろう。
 さらさらと雨が降り始めた。やがて2階建ての芝の庭園を抱えた白塗りの清楚な外観が目に入った。もともと精神を病んだシューマンが死ぬまでの2年間を過ごしたサナトリウムだ。現在は1階が図書館、2階は記念館に改築されている。館内は本を自由に手に取られるようになっており、近所の子供がお母さんと本を借りに来ていた。日本の公民館に似ている。階段を上がった広間にはピアノが置いてあり、時折演奏会が催されているようだ。奥の部屋にはシューマンの肖像画、遺品が展示してあった。更に奥にもう1部屋あった。ここがシューマンの部屋のようだ。庭園に面した窓からは四季の移ろいが楽しめるに違いない。精神が錯乱しライン川に投身して助けられた楽壇の巨星は、どのような思いで窓外を眺めていただろう。降りしきる雨が一層心情を投影しているように感じられた。生前シューマンと親交の深かったブラームスや、ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムからの手紙もあった。それにしても遺品が少ない。生誕地ツヴィカウにも記念館があるが、もっと揃っているのだろうか。
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方丈記

2010/09/05 14:11
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」の名文から始まる『方丈記』は文庫本にして30ページほどの短編作品です。著者である鴨長明が生きた時代は、平氏と源氏が骨肉の争いを繰り広げる平安末期から鎌倉時代。国内三大随筆のひとつと称されるこの随筆が成立したのは1212年で、時に長明は60歳くらいになろうかと思います。この作品は古典の教科書で取り上げられることが多いようですが、私は一度も触れたことなく、代わりに中学時代に枕草子を暗記した記憶があります。名曲、名画同様、長らく歴史のふるいにかけられ今日まで光彩を届かせる力はやはり深い味わいを蓄積しています。この度初めて開いた『方丈記』も異なりません。災害に翻弄される庶民の暮らし、世の無常に辟易した隠者の心理を、約800年の時を超えて克明に伝えています。
 本著は短編ですが、5章で構成されています。人の世のはかなさを切々と語り始める序章、当時発生した5つの災害(大火、辻風、福原遷都、飢饉、大地震)を描写した第2章、日野山での隠遁生活の様子を記した第3章、世俗から隔離された暮らしを謳歌する第4章、諦観の極みに転じる終章。逃げるように結ぶ終章は、虚無感に満ちています。
 そもそも長明は、京都の鴨御祖神社(下賀茂神社)の神職の家に生まれました。当神社の摂社である河合社の禰宜(当時の下賀茂神社では宮司に相当?)に出世する機会を得たものの、これを別の官職の者に阻まれてしまいました。都を離れるきっかけとして、本の解説にはこの他に、琵琶の演奏会で秘曲を演奏したことが非難されたことも挙げられています。長明は千載和歌集に1首入選、編集に携わった新古今和歌集には10首入集する優秀な歌人です。また方丈記は当時珍しい和漢混淆文で書かれています。相当な文才があったに違いありません。これらにより後鳥羽院から引き立てられていたにも関わらず、山に籠ってしまうところに長明の屈折が伺えます。青年期に父親と死別したことが、後の人格形成に深刻な影響を与えたであろうことが解説に書かれていました。
 出家した長明は54歳の頃、京都の日野山に庵を結びました。庵の広さは方丈(1丈は約3メートル四方)、高さは7尺(2メートルくらいでしょうか?)と質素なものです。今でいうワンルームでしょうか。言うまでもなく随筆名は方丈の庵で書かれたことに由来します。現在も庵が据えられていた場所には記念碑が立てられています。京都市営地下鉄の石田駅を南東に進むと親鸞聖人が生誕したと伝えられる日野誕生院があります。誕生院前の路地をしばらく行くと方丈石と書かれた道標に遭遇します。後は案内板が指し示す方向にひたすら歩きます。住宅街を抜け、田んぼを抜けるといよいよ山道に入ります。路面は黄土色の砂礫をむき出したごつごつしたもので、幅は人一人通れるくらいのもの。その崩れ具合から降雨時は坂の上から水が流れているのではと推察します。頭上に張られた蜘蛛の巣から推測するに、それほど人が進入していないのではないでしょうか。確かに人影はまったくありません。夏の暑い盛り、汗に反応したやぶ蚊が耳障りな羽音をまとわりつかせ、時折更に大きな羽音で飛来する虻が黒い影をちらつかせます。絶えず牛馬の尾のように手の甲で駆逐するも始終懲りる気配はありません。目的地まで300メートル、さほど急なこう配でもない山道ですが、そう短く感じませんでした(途中何度かかけられている傷んだ案内板の残距離は、どうも正確ではないように思います)。ようやく到達した方丈石は、この山では見慣れない巨大な岩でした。一方が山に埋もれているため感覚で述べざるを得ないですが、岩回りは優に20メートルを超えるのではないでしょうか。岩の上へ迂回する道をたどると記念碑が据えられていました。碑には、この岩の上に方丈の庵が拵えられていたであろうことが刻まれていました。おそらく風雪によってごつごつに削られた岩肌は足場が悪く、岩の脇には山頂方向から崩れ堆積する土砂が見受けられました。800年前の地形と比較するすべもありませんが、家を建てるに良い環境とはいえません。第3章に山麓に住む子供と人恋しげに遊ぶ記述があることから、山中に他の民家はほとんどなかったのではないでしょうか。
 方丈の庵はかつて長明が務めていた河合神社に復元されています。神社は糺の森(出町柳駅北側)にあり、下賀茂神社の表参道に入って間もない場所です。境内には、方丈記の記述を忠実に再現した5畳半の木造小屋が置かれていました。小屋は今でいうプレハブで、移設しやすい組み立て式のものだったようです。人里離れた庵の中で、人目を気にせず、気ままに琵琶を興じ、念仏を唱え、時に執筆していたのでしょう。
 方丈記は徹頭徹尾、世の無常を訴えています。長明は終章にて、自分は世間から隔絶された生活を満喫しているが、一方で安楽に執着してはならないとされる仏教の教えに矛盾しているのではと自問します。しかしあれこれ考えるも結局答えは見つからず、口先だけの念仏を唱え、諦めるように筆を置きます。人生も社会も巨大な奔流に絶えず押し流されていく。仏(善悪)の価値基準は、とどのつまり存在しないのでは、と静かに投げかけているようです。
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軍艦島

2010/01/03 13:49
 18年ぶりに訪れた長崎市街は、快晴も手伝い、年の瀬の時候に反して温かく、翌日に控えた軍艦島上陸も問題ないものと思われました。しかし、そこは自然の世界、いや日頃の行いか、翌朝吹きすさぶ寒風が起こした少しばかりの時化が、我々の接岸を阻みました。
 初日に訪れた平和記念公園と孔子廟は中学校の修学旅行以来です。長らく時間が経過していた為、双方周囲の景観がイメージと離れていました。はてこんな場所だっただろうか。修学旅行はバスで移動したので、ポイント毎の記憶は残っているのですが、移動の記憶はあまり残りません。物事は核心が大切ですが、前後も大切です。前後のない記憶は、さびだけの音楽に等しいといえるでしょう。私がツアーを好まない理由です。孔子廟は、明治26年に清国政府と華僑によって建立されました。私は孔子の思想に興味があり、論語を読んだことがあります。一見、中華料理店のような赤い外壁、儀門を潜るとずらりと並んだ72賢人像が迎えてくれます。歴代の儒学者を模ったほぼ等身大の白い石像は、それぞれが個性に富んだ表情を湛えており、どのようなことを思案しているのか想像力をかきたてます。焼香の芳しい大成殿内には少々威圧的な孔子像が鎮座しています。日常の雑念をリセットできれば良いのですが、小人にはなかなか難しいこと。それでも自然と閃く論語の教えが、芳香に煽られて、脳を優しく包み込むようです。年を重ねる毎に考えたくないことも考えなければならないのが人間社会の常。古い文献に目を通すと、今も昔もそう変わらないことがわかります。哲人たちはどのように生きたのでしょうか。顔回、子路といった孔門十哲と呼ばれる弟子たちの生き様、思想にも多くの味わい深い含蓄が秘められています。それらを知るには井上靖の『孔子』、中島敦の『弟子』が秀逸です。
 大浦天主堂に隣接している広大なグラバー園は年の瀬にも関わらず、多くの観光客で賑わっていました。長崎は湾の周囲が高台に囲まれた独特な地形をしています。その勾配にはホテルや住宅が並び、どの方角にも確認できるだけでなく、距離が近く、夜になると砕かれたガラス細工のような粗い美しさが街を包みます。これほどロマンティックで、懐のぬくもりを感じる街はなかなか見られません。日本三大夜景に東部の稲佐山からの遠望が数えられますが、稲佐山からだけではなく、どの方位の高台から眺めても趣のある夜景を楽しむことができます。グラバー園もそんな高低差に富んだ丘陵に伸びています。幕末から維新期にかけて活躍したスコットランド人商人のトーマス・ブレーク・グラバーの屋敷があることでこの名が付いていますが、敷地内には長崎を舞台に活躍した他の異人たちの邸宅も点在しています。長崎の国際都市たる所以です。グラバーは勤皇派に西洋の兵器を支援して倒幕に一役買い、明治維新後は岩崎弥太郎の弟で2代目の弥之助を補佐して三菱財閥の基礎を築くなど、非凡な商才で歴史を動かしました。当時外国の商人たちは我が国の政変に軍需を察し、巨利を得るために近づきました。商人が志士を動かし、政治家を動かすことで、国を動かしていたことがわかります。日本最初の会社といわれる亀山社中(海援隊の前身)を興した坂本龍馬にとって、自由に商売できる新しい世の中こそ、政治を動かす最大の動機だったのではないでしょうか。言うに及ばず亀山社中は長崎が発祥。龍馬が描いた明日の日本は、長崎から始まりました。
 翌朝、念願の軍艦島クルーズに出発しました。予約していた一行がホテルのロビーに集合し港に向かいます。ホテル近隣の岸壁には中型の高速船が停泊していました。昨日と打って変わりいつ雨が降ってもおかしくない様子。既に路面がぬれており、夜中降っていたことが伺えます。軍艦島に上陸するには波が穏やかでなければならず、髪が靡くほどの横殴りの風にやや時化た海面は、一行に懸念の表情をもたらしました。まず、高島に寄り、そこで軍艦島の解説を受けてから向かうということで、2時間後の波の状況によって判断することになりました。高速船とはいえ波が高いと船酔いが進みます。咽喉に不穏な気配が迷い込みます。長崎湾に沿うように築かれた三菱造船所の巨大な船渠は圧巻でした。いかに長崎が三菱発祥の地であるか、そしてこれらが為に原爆の標的にされたか気づかされます。内部が12階層ある自動車運搬船が、その建造中のはらわたをさらけ出していました。一度に6500台もの車を積載できるようです。三菱は坂本龍馬が率いた海援隊が基盤となり、同じく土佐出身の岩崎弥太郎が創業、海運業で多大な成功を収めました。弥太郎の弟で2代目の弥之助はこの高島炭鉱と長崎造船所(現三菱重工業)に事業の重点を置き、三菱財閥の基礎を築きます。
 長崎半島に沿い南下した船は、やがて高島に到着しました。かつて炭鉱で栄えた島ですが、1986年に生産量の低下などで閉山したこともあり、現在はかなり過疎化が進んでいるようです。バスで島を一周しましたが、住民の方を3人くらいしか見かけませんでした。集合住宅の高階層には空室が目立ち、ガラスが割れないように窓に蓋がされていました。北渓井坑とよばれる高島炭鉱発祥の跡地を見学しました。金網のフェンスで保護された内側には一畳くらいの長方形の井戸がありました。覗くと満面の水を湛えており、真っ暗な底を伺うことはできません。高島炭鉱の採掘は江戸時代初期から始まりましたが、重要なのは明治に入り、クラバーによって国内初となる蒸気機関による立坑が掘られたことです。それが一見普通の貯水槽に見えるこの北渓井坑で、実は歴史的には軍艦島よりも重要であるとのことです。欧米列強がアジア進出を競う中、当時動力の主流であった石炭ビジネスは、さぞ巨万の富をもたらしたに違いありません。この日、室内でのスライド解説を「軍艦島を世界遺産にする会」の坂本理事長からお聞きすることができました。理事長は小、中学生の時期をこの島で過ごされたそうです。当時の写真をふんだんに使った生きた証言には迫力があり、軍艦島閉山のくだりには感動するものがありました。
 洋上を更に南下すると軍艦島が見えてきました。正式には端島といいます。島の大きさは南北に約480メートル、東西に約160メートル、周囲は約1200mと、わずかな沖合からでも優に島を一望できる規模です。剥落、倒壊した集合住宅がひしめいており、人が住む気配はまったくない異様な光景です。海上に忽然と浮遊する街の島影により、健在であった頃から軍艦島の綽名が付けられていましたが、廃墟となってますます凄みを増しているようです。ロールプレイングゲームの世界では間違いなく物語上の重要なアイテムが隠されている、キング・オブ・廃墟。そんなイメージです。気になる波の高さは収まりそうにありません。上陸できるのか、我々は固唾をのんで接岸を見守りました。しかし、いくら本土寄りの岸壁であるといえ、防波堤もない丸裸の桟橋は、この日の波の高さを許容できるものではありませんでした。船長さん主導で数分かけ幾度か接岸が試みられましたが、押し寄せる波に船を固定することができず、上陸不可能との判断に至りました。船から島に飛び移ることはできますが、観光の場合、タラップを下さないと条例違反になるそうです。桟橋に手が届いているのに、タラップを下すことができないだけで断念せざるを得ない。仕方がないとはいえ、何とも歯がゆいです。船を停泊させるには、防波堤の役割が本当に大きいことを知りました。一行の落胆の視線を残し船は離岸、全貌が見渡せるくらいまで沖合に戻り、銘々写真を撮るための時間が設けられました。船酔いの倦怠感に景観を味わう気分にはなれないですが、少しでも瞼にやきつけようと、時間を惜しむように眺めました。
 軍艦島は高島同様炭鉱によって栄えた島で、1974年の閉山以降、無人島となっています。最盛期の人口は約5300人で、人口密度は東京の9倍だったそうです。近隣の島より電気、水道の供給を受けたこの島の生活水準は高く、鉱員たちの家には当時三種の神器と言われたテレビ、洗濯機、冷蔵庫が揃っていたそうです。また生活に必要なものは商店街に並び、その他保育園、パチンコ店、理髪店、スナックまであったという充実ぶりは、離島を感じさせないものだったに違いありません。7階や9階建ての住宅が林立しているもののエレベータが一切ない不便な面もありましたが、建物間をうまく渡り廊下で結ぶことで、昇り降りの苦労を抑えていたそうです。台風襲来時は高波が数メートルの護岸を軽々飛び越しマンションを覆うなど、孤島ならではの自然の脅威もあったとのこと。1916年には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅が建てられました。これらの華やかな記録が、面影を彷彿とさせる一方、栄枯盛衰の落差を一層強く感じさせます。採掘が進み坑道が伸びるにつれ、採算が合わなくなってきたこと、またエネルギー源が石炭から石油へと変遷していく時代の流れにより、やがて閉山の決定が下されます。産業が炭鉱しかなかった端島から住民がいなくなりました。高島を閉山すべきか、端島を閉山すべきか議論があったようですが、高島は端島より広く、農業など他の産業があったことから、高島に人を残すべきとの配慮により高島を存続させたようです。両島は石炭時代の我が国の産業を支えてきたといって差し支えないでしょう。2009年4月から上陸可能となった軍艦島には、現在までに予想を上回るに5万人が上陸しているそうです。また、「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として、2009年1月に世界遺産暫定リストに記載されました。
 長崎を歩いて現代人に突き付けられ課題を考えさせられました。今、長崎は2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の舞台として、右も左も龍馬です。鎖国時代、我が国の玄関口として平戸と出島を抱えた長崎は、開国後も外国との交易の地として栄えました。現在我が国の多くの産業は輸出入に依存しています。物質的な出入りは安全ならば良しとしても、金融の連鎖は決してゆるがせにできません。開国に始まり、敗戦を経て極限まで高められた海外依存の功罪に気づきます。日本経済は龍馬が描いたひとつの限界点に到達したのかもしれません。また、石炭産業が立ち行かなくなり廃墟と化した軍艦島は、ひたすら資源を浪費する我々に警告を発しているようです。CO2を吐き続ける地球の成れの果てが重なりました。
 龍馬が生きていたらこう言うかもしれません。「地球を今一度せんたくいたし申し候」。
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青の洞門

2009/07/20 21:27
 新日本三景というものがあるそうで、北海道駒ケ岳の麓にある大沼、三保の松原、大分の耶馬渓が数えられるようです。今回はそのひとつ耶馬渓へ行きました。山陽新幹線で小倉まで行き、特急ソニックで日豊線を大分方面に南下します。耶馬渓最寄りの中津を通過し、まず別府駅へ向かいました。
 別府は想像していたより街並も大きく、駅周辺にはそれなりに人が行きかっていました。昔ながらの温泉宿が並ぶ情緒あふれる風景を思い描いていたので、一見平凡な地方都市の光景が意外でした。風に乗ってかすかな潮の香りが漂い、海が近くにあることが推測できました。翌日でしょうか、大分市でサッカーの試合があるらしく、駅周辺の宿泊施設は通常の連休以上に混雑しているようでした。さっそく駅付近にある旅館の浴場に浸かり、長旅の疲れを落としました。場所によるのかもしれませんが、湯は無色無臭で今までのどの温泉より温度が低かったです。まったく熱いと思いませんでした。しかしぬるいとも思わないのが不思議なところ。その分長く浸かることができ、効き目が増すように思いました。温泉に入って心身の回復を実感したのは初めてかもしれません。それだけ日頃疲れていたのか、いや年齢のせいか・・・。国内随一の名湯に感心です。
 翌日、地獄めぐりをした後、昼過ぎに別府を発ち、中津へ向かいました。別府に次ぐ県内第三の都市中津市は福岡県と隣接しており、こちらも意外に大きな町でした(そもそも田舎だろうという先入観が強過ぎた)。黒田如水(官兵衛)が秀吉により豊前国に封ぜられ、中津城を築城したことが町の基礎となっています。
 耶馬渓は範囲が広いので、青の洞門周辺に絞って散策することにしました。青の洞門へは駅から路線バスで30分ほど要します。バスに揺られ田園地帯を抜けると渓谷が見えてきました。左手は切り立った競秀峰で、右手は広い河川敷を擁する山国川を超えてしばらく平地が延びています。バスが特急だったため、いったん青の洞門(トンネル)をくぐり、青の洞門駐車場に停車しました。河川に沿って走る国道の背後に断崖絶壁が屏風のように広がる様は大自然の芸術です。ほぼ垂直に天に突き刺さるその高さはどれほどになるのでしょうか。雷ひとつで巨岩が頭上を襲いそうです。青の洞門はそんな峻岳の直下にあります。江戸時代このトンネルが開通するまで、人々は岸壁に這わされた鎖を伝って通行していました。転落し命を落とす者が後を絶たなかったようです(トンネル部の高さは落命するほどではないです。当時鎖はもっと高い位置にかけられていたのでしょうか?)。この地を訪れた越前国の禅海和尚は、この難儀を憐れみ、岩盤にトンネルを掘ることを決心します。托鉢勧進で施しを受けながら周囲に人手を求めましたが、最初は皆馬鹿にして誰も相手にしてくれませんでした。それでもめげずにノミを振るう和尚の姿に打たれて、日増しに協力する者が名乗りを上げたといいます。
 1763年、和尚はついに342メートルの岩盤をノミと槌だけで貫通させました。作業を開始してから30年を要したといわれています(この逸話を題材にした菊池寛の小説『恩讐の彼方に』では、延享3年(1746年)に貫通、その期間は21年とされる)。単純に平均すると1年あたり11.4メートル。途方もなく地道な作業であったことが伺えます。現在は自動車が通行できるように直線化され、幅も高さも拡張されています。しかし、和尚の面影を可能な限り遺そうと、砂礫にセメントを塗装したごつごつした壁面に仕上げられ、ノミの痕跡を髣髴とさせます。下流側のトンネル出口の脇に和尚が掘ったルートが残されています。そこも現在は安全に塗装されていますが、採光用に外壁をくりぬかれた箇所と掘り違いの箇所が当時のままなのだそうです。地蔵の横に掘り違いを指す石柱が立っていますが、一体どこが掘り違いの箇所かよくわかりませんでした。ところで、なぜ青の洞門と呼ばれるようになったのでしょうか。地名に由来?小説に由来?小説だとすれば、貫通時、外界が月夜であったとされており、月光に照らされた夜陰を青としたのかもしれません。
 禅海和尚の不撓不屈の精神が岩の間から染み出ているように見えました。不可能を克服する信念と周囲を巻き込む情熱は見習うべきものがあります。青函トンネルや黒部ダムの関電トンネルなど、我が国にはトンネル掘削によるいくつかのドラマが存在しますが、それらの元祖が青の洞門ではないでしょうか。貫通に至った和尚と協力者たちの歓喜、感涙は想像に難くありません。耶馬渓は岩肌むき出しの断崖と鮎が遊泳する河川が流れる風光明媚です。しかし、美しくも厳しい自然に立ち向かった泥臭い人間のドラマが、後世に計り知れない遺訓をもたらしていることを見逃すわけにはいきません。耶馬渓はその点において、国内で最も優れた景勝地のひとつであるといえます。
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厚木交響楽団

2009/04/20 23:16
 4月19日、厚木交響楽団の第61回定期演奏会へ行きました。友人大浦君の指揮を久々に見ることができました。演目はヴェルディのオペラからの抜粋とチャイコフスキーの交響曲第5番。彼のフルオーケストラでの生演奏を見るのは実は初めて。更に私の好きなシンフォニーで迎えてくれようというのですから、楽しみでないわけがありません。今回も大浦君にわがままを聞いてもらい、前日のリハーサルから拝聴しました。大ホールの客席に数名しかいない中で演奏を聞けるのはとても贅沢です。表現力を増した大浦君の指揮もさることながら、楽団の方やオペラリリカ八王子合唱団の方の音楽を作り上げる熱意に感動しました。
 前日の18日、大浦君と夕方4時前に小田急本厚木駅にて待ち合せ、厚木文化会館へ移動しました。厚木文化会館はレンガ模様を基調とした立派な外観です。指揮者用に一部屋あてがわれた楽屋に失礼し、大浦君が数か月前に転居したのでその様子を聞いたり、今回の公演の準備具合を聞いたり、チケットに誤字があるというので見つけて談笑したりしました(チラシにも誤字がある)。大浦君がレター用紙に何か書いていたので尋ねてみると、歌手の方に入浴剤に添えて渡すメッセージを書いているとのこと。本番に備えてホテルでゆっくり体を休めてほしい。彼の周囲への気遣いは出会ったときから変わりません。人心をつかむことなしに良い音楽は生まれないのかもしれませんが、彼の先天的ともいえる気遣いは音楽の為でなくても日頃から発揮されています。こうした個性が広い人脈を獲得しているに違いないと感心しました。
 指揮台の上でも大浦君の優しさは変わりません。団員は平日仕事や学生をされているアマチュアの方々です。音楽への取組みは真摯ですが、厳しすぎてはついて来られなくなるでしょう。本番への時間が迫る中、時に悩み演奏を練り上げる大浦君は、巨大な壁画に対峙する画家のようです。音楽好きの私にとって、そんなクリエイティブな時間を共有することができたのは、幸せという他に言葉がありません。コンサートマスターの女性の方が大浦君と熱心にやりとりされていました。とてもエネルギッシュな方です。後で大浦君からこっそり年齢を聞いて、見た目よりお年を召していることに耳を疑いました。この若さが楽団を牽引しているに違いありません。リハーサルは夜9時の退館時間ぎりぎりまで行われました。親切な楽団の方が駅まで送って下さいました。
 本番当日、直前練習は朝10時からです。大浦君は時間を見誤ったようで、10時直前の到着となってしまいました。いやいや疲れていたのかもしれません。シンフォニーだけでも50分間を要します。長丁場にあれだけの運動量となると体にかかる負担も相当なものでしょう。その上演奏の責任を負い、大勢のメンバをまとめるプレッシャーも決して少なくないでしょう。楽屋で時折大変そうな表情を見せるも、表に出るとそれを隠してしまえるところに仕事人の凄味を感じました。エントランスに大勢のお客さんが並んでいたのか、開場が予定より15分前倒しとなりました。本番後は大浦君が四方八方の対応に追われることを考慮し、ここで若きマエストロと別れ、楽屋を後にしました。
 前半のヴェルディの楽曲は、本番の出来が一番良かったのではないでしょうか。イタリアオペラがこの世界の入口だった大浦君にとって、その伝導は使命のようなもの。選曲もバランスが良かったように思います。勇壮なマーチの箇所では特に合唱団の男声部がしびれる迫力を提供してくださいました。観客の耳に最も印象を残した楽曲のひとつだったであろうことが、万雷の拍手から伺えました。後半のシンフォニーは、練習の時から懸念していた綻びがちょくちょく顔をのぞかせましたが、第2楽章の主題など聞かせるところはしっかり聞かせていました。第一楽章と終楽章で何度も押し寄せる金管の咆哮は、聴衆の心を揺さぶり、楽曲が持つ魅力を十分に伝えていたように思います。弱音の脆さを金管群がドカーンと一掃していたような気持ちがしました。本番と合わせて2日間で同じシンフォニーを3度聴きましたが、演奏のレベルが想像していたより高かったこと、そしてこの大傑作が持つ壮大で明快な魅力に、飽きることなく3度同じ興奮をもって聴くことができました。大浦君は2月末、自身の故郷に近い仙台のオーケストラでも同じシンフォニーを振っています。時期が近かったこともあり、同じ曲を採用したことに楽をしてしまったと漏らしていました。しかし、その分厚木では洗練されたものであったことでしょう。
 大浦君の指揮は確実に進化しています。プロとして魅せる技術も向上しています。この先彼がどこへ連れて行ってくれるか楽しみです。このような幸せな時間を与えてくれたマエストロに、そしてすてきなサウンドを聴かせてくださった厚木交響楽団とオペラリリカ八王子合唱団の皆さんに、万感を込めて叫びたい。ブラボー!
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石見銀山

2009/02/21 12:42
 石見銀山へ行きました。今年初めての小春日和の昼過ぎ、大阪を発ち新幹線で岡山まで。特急やくもに乗り換え中国山地を縦断する伯備線を北上します。途中山間に幾分場違いな寝台特急サンライズ出雲とすれ違い、遠く薄暮に雪を冠した名峰大山を眺めながら、19時頃出雲市駅に到着しました。数年前出雲大社を参詣した折り出雲そばに舌鼓を打ち感激したので、早速久しぶりの割子そばを頂きました。濃厚で腰の強い麺はさすがでしたが、打ってから時間が経ったのか、瑞々しさを欠いていたのが少し残念でした。一夜明け、翌朝6時の始発益田行にて大田市駅へ向かいます。群青色に染まる未明の海、低い波頭が白い泡沫を拡散しながら打ち寄せる様は陶磁器の墨絵のようです。静寂に図々しく割り込むディーゼルの音に掻き消され届かないはずの波の音が、耳の奥を幽かに震わせます。冬の海にしては凪に近い状態に、昨日に続き良い日和になることが予測できました。
 誰もいない大田市駅でやはり始発のバスを待ちます。改札脇の陳列棚に置かれた銀山の資料を眺めていると空が明けてきました。六畳ほどの改札口に、列車の到着を待つ客が数人入ってきました。まだブラインドが下りた窓口から当直の駅員さんが顔をのぞかせます。駅前のロータリーに路線バスが入ってきました。石見銀山は世界遺産登録後、観光客が激増したそうですが、早春の早朝にその面影はありません。バスは山間の田園地帯を駆け、途中市民病院を経由し、30分ほどで大森バス停に到着しました。旅の前に大田市役所の方から丁重な情報を頂いていたので効率よく目的地へ向かうことができます。ここから徒歩で龍源寺間歩を目指します。間歩とは坑道のこと。龍源寺間歩は観光客が出入りできる唯一の坑道として石見銀山を象徴するスポットのひとつです。市道銀山線は2週間前に起きた落石の影響で通行止めとなり、その間龍源寺間歩は閉場を余儀なくされていましたが、前日に仮設迂回路が設置されたことで通行が可能となりました。
 朝8時、遊歩道にはまだ観光客は見られず、補修工事にあたる土木業者の方や犬と散歩する地元の方くらいです。観光客が増加したからでしょうか、山沿いの遊歩道は近年造成されたように見えます。しかし材質や色彩が里山に違和感なく溶け込んでいるのはさすがです。路傍の道標に誘われ左手の坂を上ると、清水谷精練所跡がありました。精錬所は採掘した岩石から銀や銅などを抽出する場所です。この清水谷精錬所は大阪の藤田組によって、1895年に巨費を投じて操業を開始しましたが、わずか1年半で廃業したそうです。一説には良質の鉱物が枯渇してしまったことが原因とされています。作業場の家屋は残されていませんが、階段状に八段を数える石垣の壁面に、窯跡らしき大きな穴が5つほど並んで口を開いていました。石垣の至る所に梅の木が立ち、さながら花壇のような風景です。足許には発掘調査のためシートがかけられ、立入禁止とされていたため石垣の中腹へ至ることはできませんでした。
 遊歩道を南下するといよいよ龍源寺間歩が見えてきました。石見銀山には間歩が600ほどあるといわれていますが、前述の通り現在公開されているのは龍源寺間歩だけです。狭隘な山と山の間に受付小屋があり、左手の鬱蒼とした山肌には大きな坑道がぽっかり口を開けていました。まるでテレビゲームの洞窟の入口です。先刻開場したと思われる受付で入場料を支払い坑内に足を踏み入れます。私が最初の客なのか坑内には誰もいません。入口付近の高さは1.5mくらいと低く圧迫感があり、腰を屈めながら前へ進みます。この態勢で150mも進むのかと不安に思っていると途中から先は少し高くなっていました。天井が崩れないよう鉄骨で補強してある個所もありました。随所にライトが点灯していますが、仄かな明るさに目を凝らさなければ頭をぶつけそうになります(明る過ぎると雰囲気を壊すのでこれくらいが適当だと思う)。山中に埋没した岩盤をくり抜かれているため、上下左右すべて岩です。鑿で削られた跡で細かくごつごつしており、砂礫をまぶしたようにざらざらしています。あちこちで水滴が地面を打つ音が聞こえます。結晶のような岩の突起に垂れる水滴がライトに照らされ、光と影を含んで小刻みに揺れ、飽和に達すると地球の中心めがけて一直線に落下します。何だか奇妙な精神の落ち着きを感じます。観光客が多い日中では、この胎内のような洞穴の魅力を楽しむことはできないでしょう。坑道のあちこちに這わなければ進入できないほどの細い竪坑が差し込んでいます。鉱脈を追及して掘られたのでしょうか。また外界から空気を取り込むためでしょうか。銀の採掘に懸ける坑夫たちの執念をひしひしと感じます。150mほど進むと少し広い空間があり、更に奥へは人ひとり入れる程の坑道が伸びていますが、柵があって進むことはできません。坑道とほぼ直角の左手に近年作られた出口用の通路が伸びています。しかし現在出口は閉鎖されているようで、外へ出るには来た坑道を引き返すことになります。そのため受付で徴収された入場料は平時の半額になっていました。そもそも来た坑道を戻る方が遺産を倍に体感できて得だと思います(出口用の通路には途中何かあるのでしょうか)。操業当時、坑内では落盤や酸欠など事故があったに違いありません。過酷な労働環境は坑夫たちの体を蝕んだに違いありません。世界にその名を知らしめた石見銀山の栄華は、労働者の雨露で飢えを凌ぐような苦闘と地道な努力によって支えられてきたのでしょう。
 石見銀山は16世紀頃、世界の銀産出量の三分の一を占めていたことで、大航海全盛のヨーロッパの地図にもその名が刻まれました。銀の取引目当てに日本を目指したポルトガル人によって、まず種子島に鉄砲が持ち込まれ、次にフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝来します。石見銀山がこれら日本史上の大事件の引き金を引いたとされています。やがて江戸時代には幕府の直轄領となり、その財政を始終一貫して支えることになります。ミミズの巣のようにこの地に無数に走る間歩ですが、観光客が目にできるほとんどは地表に現れた出入口だけです。
 私はこのたび国内の世界遺産をすべて回りました。石見銀山は最も地味な世界遺産です。ひょっとしたら世界で最も地味かもしれません。しかし、龍源寺間歩を散策し、このような坑道が張り巡らされていることを思うと、その隠された価値を認識しないわけにはいきません。また、鉱山の経営で栄えた大森地区の町並み、周辺の里山風景は実にのどかで、江戸時代から明治初期にかけて建てられた日本家屋、寒風に耐え咲く畑の葱坊主、煎った唐黍のように綻ぶ梅の花を眺めていると、日本人に生まれた喜びを噛み締めざるを得ません。かつて世界の経済を動かし、国内の財政を支えた石見銀山は、現在我々の心を豊かにしてくれているようです。耳を澄ませば鑿を振るう軽快な音がどこからか聞こえてきそうです。
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ジョン万次郎

2009/01/10 16:19
 自身と同じ誕生日の偉人に中浜万次郎がいます。今日、ジョン万次郎としてその名が知られています。ジョン万次郎の呼び名は井伏鱒二の直木賞作品『ジョン万次郎漂流記』が始まりのようです。「ジョン」とは彼を救助したアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号に由来し、当時彼はジョン・マンと呼ばれていました。井伏鱒二は万次郎とジョン・マンの組み合わせをもって、ジョン万次郎としたことが考えられます。幕府に登用されてからは故郷の地名中浜を冠し、中浜万次郎と名乗りました。
 1827年1月27日(小説には文政10年の月日は不明とある)、土佐の国幡多郡中の浜(現在の土佐清水市)の貧しい漁村に生まれた万次郎は、早くに父を亡くし少年の頃から漁に出て家計を支えなければなりませんでした。15歳の頃、すずき漁の魚はずしの役を担った出漁が、彼の人生を大きく変えます。漁船には近隣の漁師伝蔵(38歳)、その弟重助(25歳)、伝蔵の息子五右衛門(15歳)、仲間の寅右衛門(27歳)と万次郎の5人が乗り込み、正月5日に宇佐浦を出帆しました。延縄を仕掛けるも成果が思わしくなく沖合で魚群との我慢比べが続く中、足摺岬の沖合にて数日にわたる暴風雨に遭難します。備蓄された食料は尽き、漁で得た鮮魚で飢えをしのぎ、伝助の顎鬚が凍結するほどの風雪に耐えて漂着したのは、太平洋に浮かぶ絶海の孤島でした。小説では地獄絵図のモデルになるような不毛な環境であると形容されています。現在この島は東京都の管轄下にある鳥島といい、東京から南に600km(八丈島までの距離の倍)ほど離れた、特別天然記念物に指定された無人島です。飲料水に乏しく雨水で喉を潤し、アホウドリ(現在は19世紀後半の乱獲がたたって絶滅危惧種に指定されている)の肉を食らいながら命をつなぐなど、せっかくの漂着もなお死と隣り合わせの過酷な生活が続きます。約5ヶ月後、近隣を通りかかったマサチューセッツ州ニューベットフォードの捕鯨船に救助され、奇跡的に一命を取り留めました。
 小説では、ジョン・ホーランド号の船長ホイットフィールドは温厚、寛大な人格者として描かれており、漂流者5名を賓客のように丁重に扱います。航行中寄港したオアフ島ホノルルにて万次郎を除く4人は上陸し、異国での生活を始めます。船長に気に入られた万次郎は引き続き航海に同行し、ついにニューベットフォード(ニューヨークの東300kmほど離れた都市)に帰港、アメリカ本土に歴史的な第一歩を踏み入れます。万次郎は航行中にアメリカ人顔負けの捕鯨技術を身につけ、またホイットフールドの養子として現地の学校に通い、測量、造船などの世界最先端の技術を学ぶ機会を得ます。万次郎が日本に戻ったのは1851年(24歳)のこと。鎖国ゆえ外国船が入港できない時代、沖合から伝馬船にて漕ぎ入れ、まず琉球に上陸します。薩摩藩の奉行所の取次により本土に送られ、開明論者の藩主島津斉彬に謁見し見聞を披露します。薩摩藩は彼らを丁重に扱い、円滑な帰郷を斡旋したといわれています。その甲斐もあり、幕府直轄の長崎奉行所での取り調べを終えた一行は、ようやく念願の土佐の土を踏むことが叶いました。万次郎の母は健在であったそうですが、小説には再会についての記述が端折られており、もう少し行を割いても良いのではと思いました。帰郷して間もなく、万次郎は26歳の頃、これら異国で修学した教養と語学力により、幕府の旗本に抜擢されるという異例の出世を果たし江戸へ向かいます。1860年(33歳)に勝海舟に随行し咸臨丸に乗船するなど、尊王攘夷と日米修好通商条約の批准に揺れる日本の外交の第一線で通訳として活躍します。
 ジョン・ホーランド号内で初めて見た世界地図に日本の矮小さを知り、アメリカで吸収した西洋文明と民主社会は、地方の漁村出身の万次郎にとって別世界の出来事のように思われたに違いありません。様々な人種に対し、彼らがどのような表情で接したか想像するのは何やら愉快です。万次郎が持ち帰ったアメリカ社会の見聞が、同郷の坂本竜馬の開明思想を開花させ、また薩摩が倒幕挙兵する直前には、世話になった薩摩藩からの招聘に応じ、血気盛んな藩士らに軍艦運用術と英語を指南したといいます。幕臣でありながらのこうした働きは、上司である勝海舟の広い視野にも助けられ、国内の既成概念に縛られない世界観を形成していたことが伺えます。小説からは、ホイットフィールド船長との親子愛にも等しい子弟愛、ホノルルの人たちの温かいもてなしの心が伝わります。伝蔵は帰国するまでの約10年間をホノルルで過ごしました。重助は漂流時の傷が悪化してこの間病没します。五右衛門は現地の妻を娶るも、後に妻を残して万次郎らと帰国。寅右衛門は当地を気に入り、万次郎らの再三の誘いを拒んでついに帰国しませんでした(骨を埋めたかは不明)。現地の住民や行政から施しを受け、各々申し出て仕事に就くなど豊かな生活(金銭的な豊かさではなく)を送ったようです。一方、合衆国にてホイットフィールド家の一員として迎えられた万次郎は、学校を卒業後捕鯨船に復帰すると、船員たちの投票で副船長に選出されます。また、咸臨丸で帰国の途中ホノルルに凱旋寄港した万次郎を、現地の人々は大いに祝福したそうです。異国の人々から信頼され、愛されていた様子が伝わります。維新後、万次郎は開成学校(現東京大学)の教授を勤め、1870年(43歳)には普仏戦争視察のため大山巌に随行し渡欧します。しかし帰国後、折からの病状が悪化し、71歳まで残された後半生を静かに過ごしたそうです。小説の末尾、万次郎の念願は政治家でも、教育者でもなく、いつまでも大海原での捕鯨を夢見ていたとのことです。
 万次郎が没して半世紀後、日本はハワイを奇襲します。万次郎たちが築き上げた関係も、時代の流れが根こそぎ破壊しました。現在、両国の関係はまずまず良好な方かもしれません。しかし、岩を返せば依然山積する問題の数々。この先幾度も両国間での対立の疑念が生じるに違いありません。そんな時、万次郎やホイットフィールド船長のことを少しでも思い出す心の余裕があればと、願ってやみません。
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春日山城

2008/11/03 19:01
 大阪と新潟を9時間で結ぶ寝台急行「きたぐに」に乗りました。目的地の直江津まで8千円程度と安価であることから、23時27分始発の自由席(4人用ボックスシート)に陣取り、約6時間を他の旅客と向かい合わせで過ごしました。言うまでもなく田舎の夜景である為、また途中まで普段の通勤経路と重なる為、特に車窓を楽しむつもりもなく、ましてや週末の疲労もあって始発から眠るつもりでいましたが、米原あたりまでは初めて夜行列車に乗る興奮から、眠気を催しませんでした。北陸本線に入ったあたりで尻の痛さに限界を感じ、横臥に切り替えたところ、落ち着いて眠りにつくことができました。無論横に2人分の長さしかない座席に臥しても足を延ばすには至りません。特に長身の私は頭と胴できっちり二人分を占有します。うまく足を曲げるなど工夫し、態勢を変えながら過ごしました。眠る乗客に配慮し、大津あたりから翌5時56分に到着する直江津駅の手前まで車内アナウンスはありません。途中下車する場合は自分で到着時刻を把握しておかねばなりません。周囲は週末の帰省客もあって老若男女さまざまでしたが、それほど混雑はせず、列車が動き始める度にガツンと音を立てる連結部の軋みを除くと概ね快適でした。
 予報通りにぐずつく曇空の下、未明の直江津駅に到着しました。すぐに信越本線に乗換え隣の春日山駅に向かいます。7時前の春日山駅には駅員がおらず、周辺に空いている店もなく(そもそも店がない?)、ただ来年の大河ドラマ「天地人」のPR用に揚げられた幟に、直江兼続の名がはためいていました。今回の目的は上杉謙信の居城春日山城です。午後は長野市の川中島を訪れたかったことから、早い時間に春日山を攻略しておきたいと考えました。もともとバス停がないのか?それとも早朝だからかバスはなく、待合せのタクシーの影もなく、時折ぱらぱら降る雨に傘を開いたり畳んだりしながら約30分かけて山の入口まで歩きました。山城であることからそれほど標高は高くないであろうこと、また孤立した山であることから、遠目にも目的の山を識別することができました。城や櫓は一切残されておらず、外観は緑生い茂る平凡な山です。もともと石垣も天守閣も持たない山の起伏を利用した天然の要害です。一部の土塁を除いて、ここに城があったことを素人目に判別できるものではありません。春日山城の成立年は未詳。1507年に長尾為景が城主になって以降、晴景、景虎(上杉謙信)、景勝と四代の居城となり、戦乱の世が終わった1607年に麓に移城され役目を終えました。
 玄関口では上杉謙信の銅像が迎えてくれます。5メートル程度の石垣の高台に設置されており、間近に観覧できないのが残念でした。謙信を祀った春日山神社で参拝を済ませ、ぬかるんだ土に足元を確かめながら、木杭が打たれた階段状の坂を上ります。千貫門跡のあたりで雨が一段と激しくなってきました。草を打つ雨粒が葉に跳ねるのを見て傘の外に掌をかざすと、水滴に交り白い雹が一粒転がり込んできました。雨宿りする場所もなく、設置された看板の庇を背にしばらく時を過ごしました。更に上へ昇ると虎口から直江屋敷跡に至ります。今は草地に石碑が建つのみですが、戦国時代の山城の特徴に違わぬ、多層的に郭が連なった連郭式山城の仕組みがよくわかります。当時と若干の変化があるとはいえ、曲折する隘路、急斜面は外敵の侵入を困難とし、幾層にも分けて門、屋敷が設置された様は地の利を最大限に生かしたもの。難攻不落の城砦と謙信の武勇があいまって長らく越後は外敵を寄せ付けなかったことが推測できます。
 山頂付近に毘沙門堂が見えてきました。山中、唯一再現された建造物だと思われます。小さな祠には謙信が崇拝した毘沙門天が安置され、ここで謙信は出陣前に戦勝を祈願したといわれています。毘沙門天は仏教四天王に数えられる多聞天の別称であり、七福神のひとりとしても知られる戦勝の武神です。鬼のような形相で他を威圧する攻撃的ないでたち。謙信は自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じていたことから、戦場での鬼気迫る気勢が目に浮かびます。再度雨が激しくなってきたので、祠堂の近隣に設置されたあずまやの軒を借りました。女郎蜘蛛が四方2,3匹、風に震える糸の上で寒げに巣を守っていました。さほど近くではないですが、雷が落ちるたびに、轟音が遠方の山々に反響して聞こえました。巨神が韋駄天の速さで彼方へ駆けるようです。山頂付近にいるので、雷に気をつけなければなりません。雨はいつ止むとも知れないので、雷との距離を測りつつ本丸へと歩みを再開しました。
 本丸とそれに続く天守台も今あるのは石碑のみで、敷地はどちらも家屋一軒分程度の広さでした。ただ上越市街、直江津港を眺望できる景色は優れない天候の下でも良好なものでした。上杉謙信はここに起居していたのでしょう。歴史好きは異口同音に唱えますが、建物の残存は二の次であり、その人物が生きた場所に立つことに最大の感銘を受けます。復元されたものには余り興味を示さないのも彼らの特徴かもしれません。春日山城の本丸に立つ私を毘沙門天が雷をもって歓迎してくれているようです。信長との手取川の戦いから帰還した翌1578年に謙信はここで没しました。戦闘に明け暮れた49年の生涯、越後の龍と謳われ、信玄との5度にわたる川中島の戦いが衝撃的な伝説を生んだ稀代の軍略家は、一方和歌、書、茶道、琵琶の演奏にも長けていたといわれます。自ら太刀を振るい大軍を率いる統率力、公家とも交わる気品、覇を唱え上洛を狙う謙信の野望が、まだここに息づいているように感じました。下山途中、急速に雲が引き、まばゆい太陽が顔を出しました。水滴を落とす木立の間隙を安堵の風が吹き抜けました。
 下山後、上杉家の菩提寺である林泉寺へ向かいました。謙信は7歳から14歳までこの寺に預けられ6代目住職天室光育から教育を受けます。謙信の人格の基盤となった教養、信仰心はこの名僧によって培われたといえます。山門を潜った右手にある宝物館は必見。謙信直筆の山門大額や書が極めて良好な状態で保存されており、謙信が纏った「毘」の字を兜に掲げた甲冑、戦場に携行したとされる毘沙門天像、復元された軍旗など当時を知る上で貴重なものばかりが展示されています。昨年大河ドラマで謙信を演じたガクトさんもここを訪ねたとのこと。墓所の石段を上がると苔むした謙信の墓がありました。謙信の死後、御館の乱を制した謙信の姉の子、上杉景勝が家督を継ぎます。求心力の低下により勢力が衰え、信長に矛先を向けられ一時は存亡の危機を迎えますが、秀吉の時代になると景勝は豊臣氏五大老に数えられ、やがて時代が徳川に移ると米沢藩の初代藩主となります。景勝は謙信の棺を林泉寺から自ら封ぜられた任地、会津、米沢へ移したといわれていれます。時代が変遷しようとも、謙信の人望、武勲に満ちた生涯が上杉家、領民の拠りどころとなっている様子が伺えます。
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ライン川

2008/07/06 00:07
 平成15年10月6日、午前9時に関西国際空港を離陸したルフトハンザ機は、12時間の長い飛行を終え、定刻の午後3時頃フランクフルト空港に到着した。飛行時間は半日だが時差がある。ヨーロッパへのフライトは2年前ロンドンへ飛んで以来2度目。着陸前、眼下の都市を遮る雲の中が猛烈に吹雪いていた。薄手の防寒着しか携行していないので予想以上に寒いのではと心配になった。着陸してみると雪は止んでいたが、滑走路は一面湿っていた。自身初となる念願のドイツの大地に第一歩を踏み出した。ウィーン同様心地よいインスピレーションが包んだ。
 初日はボンのホテルに宿泊する。追加料金なしでケルン・ボン空港に飛ぶことができたが、鉄道で2時間程しかかからないので陸での移動を選択した。ドイツの国営鉄道はDB(Die Bahn)という。切符を買うにも自動券売機に慣れておらず、じっくり眺めても分かりそうにないので、窓口で買うことにした。窓口で切符を買うと発着時間と番線の情報を印字して渡してくれる。フランクフルト空港駅は地下にあり、指定のホームで列車を待った。しかし予定時刻を過ぎても目当ての列車が入線してこない。挙句後発の列車が先着し始めた。不安になり、近くにいたドイツ人夫婦に聞いてみた。どうも遅れているようで、私たちもそれに乗るから一緒に乗りましょうということだった。後になって気づくがDBの遅延は日常茶飯事のようだ(日本が正確過ぎるのか)。改めて頭上の電光表示を確認すると、確かに「spater(遅延)」となっていた。遅れること30分、ようやくコブレンツ行きの列車が入ってきた。煤けた赤いディーゼル車に牽引された力強い車体だ。発車してしばらくすると、列車は地上に出た。郊外の町並みは殺風景で、天気が悪いこともあり重い空気を感じた。列車のドアは日本のローカル線同様、駅に着くと脇のボタンを押すことで開扉できる。折りたたみ式のドアが自動で閉まる勢いは強くバタンと音をたてるので、挟まると大ケガしそうだ。座席が空いたので座ろうとしたが、腰に上着を巻いていたので足元がよく見えず、誤って婦人のかばんの上に腰をかけた。談笑中の持ち主には気づかれなかったが、隣席のおじさんに笑われた。
 ライン川に沿い北上する車窓からは暮れなずむ対岸の風景を楽しむことができた。小高い丘にブドウ畑が広がり、至るところに石塁の古城が見られた。時折小雨がちらつく偉大なるラインは冷たく目に飛び込んできた。その分、車内の居心地が暖かく感じられた。座席は向かい合わせになっており、対面に会社帰りのサラリーマンが2人、隣に1人座っていた。彼らはパソコンの広告を見せ合ったりしていた。車内での携帯電話の規制はないのだろうか、着信メロディがあちこちから聞かれた。どれも既に日本では聴かれないモノラルな音だ。対岸のニーダーヴァルト丘陵に、1871年のドイツ統一を記念して建てられたゲルマニアの女神像があった。活版印刷機を発明したグーテンベルクの生誕地として知られるマインツにも停車した。河畔をのんびり駆ける列車は、途中対向列車待ちで更に30分ほど遅れ、乗継駅のコブレンツに到着した。町は夜の帳が下りていた。到着が大幅に遅れたので、窓口でもらった乗換え時刻はとうに過ぎていた。構内を歩くと別のホームにボン行きの表示があり胸をなでおろす。夜だからだろうか、コブレンツからボンまではほとんど山の中のように感じた。
 1時間ほど揺られるとボンの町並みが見えてきた。旧西ドイツ(ドイツ連邦共和国)の首都として戦後大きな役割を果たすも、人口31万人を大都市というには及ばない。気温は耐えられなくないが、上着を羽織らねば寒い。駅舎は石材造りの古風なデザインで、ベーグル屋やコンビニなどの売店が並んでいた。こじんまりした駅舎周辺は、会社帰りのサラリーマン、多くのカップルや若者らで活気が溢れていた。クリスマスで賑わう商店街のような情景だ。ホテルは南に1kmほど下ったボン大学の脇にある。不慣れな夜道に大きな荷物は危ない。タクシーに乗ることにした。海外ではタクシーの後部ドアは乗客の手で開け閉めをする。開けてくれるのを待っていると、運転手がなぜ乗らないという顔でこちらを伺っていた。
 部屋でデジカメを充電しようと、日本で買った欧州専用プラグを得意に装着した。しかし5年前購入したデジカメに付属していたACアダプタは、100Wの国内専用だった!パチパチ怪しい音をたてるので振り返ると一本の煙が中空に筋を立てていた。唖然とする間もなく慌てて抜く。後には異臭が残された。この旅を文書で記録することにした。
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学問のすすめ

2008/05/05 18:43
 福沢諭吉といえば1万円札の肖像が有名です。著書『学問のすすめ』を読みました。1872年から1876年にかけ十七編に分けて執筆された宝鑑は、一編につき約20万部発行されたといいます。維新期の日本の人口は約3000万人。現在の人口換算でいくとシリーズ1千万部突破の大ヒット作品といえるでしょう。その痛快な思想開陳には、幾分過激な内容も散見されますが、文明開化の時代に生きた情熱の躍動感に圧倒されます。大変革直後、浮足立つ我が国の価値観の中で、確固たる気概と先取の観がみなぎっており、民主主義を謳歌し、国家独立を高揚するものです。表題に違わず学問を推奨した内容に異なりませんが、諭吉は自分の生計を支え、引いては国家の形成に寄与するものでなければ、真の学問ではないと説いています。
 江戸末期、洋書が大量に流入し、自身も使節として洋行する中、万事科学的根拠をもって成立することを知ります。幕府時代に栄えた儒学が科学発展の一端も担っていないとの主張はやむを得ないかもしれません。また、主君の為に散った赤穂浪士の挙動にも激しい疑問を投じています(しかし後に世論の反発を買い、当時においては美徳であることを認め、近代における同様の観念を非難するものであることを釈明しています)。また、始終生きた学問を説く当の論説は、近代における処世、人との交わりの重要性についても鋭く言及しています。今日を生きる為の教科書といえるかもしれません。
 大阪の淀屋橋駅と北浜駅の間に緒方洪庵が主宰した適塾があります。我が国の蘭学塾唯一の遺構は、商業ビルの間隙に肩身狭そうに佇立しています。当時の町屋建築が保存されており、玄関から一歩踏み入ると喧噪から隔絶された落ち着きを味わうことができます。縁側や窓から空を見上げると鉄筋コンクリートが頭上を覆い現実に戻されますが、年期を経た梁、畳、植木、障子に包まれた空間は、わが身に流れる日本人の血を静かに呼び覚ましてくれるようです。緒方洪庵はここで医学を研究し、多くの患者を診察する傍ら、全国から集う門下生に蘭学を授業しました。安政の大獄に没した橋本佐内、五稜郭にて官軍に抗戦した大鳥圭介、長州征伐にて幕府を撃退した大村益次郎らを輩出したことから、蘭学によって培われた精神は医学に留まらなかったのではないでしょうか。
 その門下には1857年に塾頭となった福沢諭吉もいます。若き日の諭吉は腐食した幕政に限界を感じていたものの、倒幕派にも信を寄せずをこれを激しく非難していました。しかし、やがて近代化への改革を次々と断行する明治新政府を、興奮をもって称賛するようになります。1868年に慶応義塾を設立し、国家を代表する教育者の道を歩む矢先に『学問のすすめ』は執筆されました。そこには諭吉の思想家としての憂国の情と、教育者としての闊達な訓示が明朗な表現で凝縮されています。読中読後、自分にとって真の学問とは何か、考えずにはおれませんでした。
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老子

2008/04/28 00:40
 中国の老子の本を読みました。書名『老子』はその構成から別名『老子道徳経』とも呼ばれています。名句「上善水の如し」は、日本酒の名前に用いられています。老子が活躍した時期は春秋戦国時代ですが、ほとんど記録が残されておらず、実在が判然としない半ば伝説のような人物です。中国の代表的な思想に孔子が創唱した儒教と老子を信奉する道教(古来からの民族宗教)があります。私は『論語』を読んだことはありますが、この度『老子』に初めて触れます。儒教と道教の両輪を知らずにいることは無知に等しく、老子に触れることで孔子の思想さえそれほど理解していなかったことに気付かされます。ともに徳のあり方を説きながら、老子の教えは孔子とは真逆です。孔子は礼楽を推奨し、学問の必要を説きますが、老子はそれら一切を痛烈に批判しています。老子は知識を蓄えることで社会の競争が助勢され、人々が一層苦しむことになると危惧し、そういった知識を捨て、自然と合一しその身を任せよ(無為自然)と訴えています。自然界に底流する母なる領域こそ万物の根源であり、老子はその杳としてつかみどころはない精神世界を「道」と呼び、道を会得した人物を聖人としています。
 紀元前における、競争社会が人間に歪をきたすとの問題提起は、有史以来人間の本質が何も変化していないことに気づかせてくれます。特に現代、我々は学歴主義、実力主義と呼ばれる世情に身を晒し、日夜過重なストレスに苛まれ生活しています。また、火急な科学の発達は生活を便利にする反面、更に多くの不幸を生み出している事実も見逃すことができません。留まることの知れない殺傷兵器の開発と実戦での使用、産業革命以降続く地球温暖化への一途はニュースで目にしない日はありません。手塚治虫著『火の鳥』未来編では発達した頭脳を持つナメクジが文明を興し、全面戦争の挙句滅亡します。最後の一匹となったナメクジはなぜ我々が知能を持ったのか、恨めしそうに神に問います。
 人間社会の進歩が、真の進歩といえるのかとの疑惑は老子の時代から叫ばれていたのです。しかし現実的に、老子の教えを鵜呑みにすると、木偶の坊のようにならざるを得ません。実際老子も自身が世間からの痛罵の対象であったことを記録しています。道に立ち返るとは退行と受け取られ兼ねません。では現代に至るまでその教えが脈々と生き続けるのは如何なることでしょう。異常な速度で変化を重ねる時代、道に立ち返るとは、己を見失わない作用をもたらすのではないでしょうか。何もかも浮世の出来事、片意地張って、勝負に勝ったところでその幸福が一体何なのであろうか。そもそも勝負に勝たなければ幸福になれない窮屈な観念こそ根本的な過ちである。
 勝負をしないから負けることもないとされる聖人像は現実離れしていますが、無形の道による無限の救済に浸る感覚を覚えます。そこに、感情や礼儀や知恵や技術からのアプローチでは到底到達できない人徳のルーツが見えるような気がします。
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シューベルト

2008/01/17 00:12
 シューベルトといえば600曲以上の歌曲を世に放った「歌曲王」として有名です。しかし声楽に疎い私は交響曲を好んで聞きます。彼の交響曲は付番の解釈が時代や編纂者によって異なり、しばしば混乱を招く原因にもなっています。第1番から第6番までと、第8番(未完成)、第9番(ザ・グレート)の他、付番されていない未完作品を含めると14曲に上るようです。第8番が、未完にも関わらず作曲家の代名詞のように突出したのはその音楽性の高さからです。1822年、シューベルトは兼ねてからの売春宿通いがたたり、梅毒を罹患します。幸福だった人生が一転、悲運のどん底で書かれたのが未完成交響曲です。なぜ第3楽章の冒頭で筆を止めたのか依然不明ですが、その暗澹たる心情を慮ると、気力が持続しなかったのかもしれません。しかし、苦悩と諦観がふたつの楽章で充分表現し尽くされているようにも感じます。
 私は付番された8曲のCDを所持しています。19世紀初頭、ロマン主義の草創期にかけ、音楽史を刻むように遷移するその作風からは、ハイドンの堅牢性、モーツァルトの歌謡性、ベートーヴェンの哲学性を兼ね備えた印象を受けます。一見いいとこどりの器用さに耳を奪われがちですが、天才特有のひらめきが遺憾なくちりばめられています。第4番の第1楽章に、後のブルックナーのスケルツォを想起するのは私だけでしょうか。機会があれば、スケッチに終わった第7番も聞いてみたい。そもそも存在有無が議論になっていますが、消失したとされるグムンデン・ガスタイン交響曲が発見されれば、どれほど興奮するでしょう。
 1828年3月、シューベルトは最後の交響曲第9番(ザ・グレート)を完成させ、その年の11月、31歳の若さで世を去ります。死因は最近では腸チフス説が有力なようです。この大ハ長調交響曲は歓喜の音符に満ちています。孤独と死に怯える若き大家の苦悩はほとんど感じられません。終楽章はあらゆる楽器が満腔の幸福を叫び上げています。1818年に第6番を完成させた後、ガスタイン交響曲を除く5作を連続して未完に終わらせた天才が、死の淵で完成させた天上の交響楽です。死期を悟った彼は、どれほど不遇の波濤が押し寄せても、人生とは真にすばらしいものであることを後世に伝えたかったのかもしれません。敬愛するベートーヴェンが没した1年後、その魂も思想も追うように偉大な音楽家は天に召されました。
 1897年1月31日生まれのシューベルトは、32歳を迎えず世を去りました。私はもうじき32回目の誕生日を迎えます。ホルンの序奏が耳の奥で響いています。

 平成13年12月29日、数々の歴史的名場面を演出したシェーンブルン宮殿を観光した後、ウィーン中央墓地へと向かった。折しも降り始めた冷たい雨の下、路面電車で空港方面に20分ほど戻った郊外に墓地はあった。煉瓦の壁に囲まれた広大な敷地には古今の市民300万人が埋葬されている。生憎の天候で訪問客はほとんど見られなかった。白い息を切らし真っ先に第32A区に歩みを進めた。寺院に通じる大通り、冷たく濡れた砂利を鳴らしながら歩くとそれは左脇にあった。わずか十数メートル四方の区画、左正面にベートーヴェン、右正面にシューベルト、右手にヨハン・シュトラウスU世、そしてブラームスの墓碑が並んでいる。圧巻の光景に固唾を飲む。各々の墓を前にすると楽曲が否応なしに頭を駆け巡る。夏には色とりどりの顕花が石板を彩るが、今はいずれもモミの枝葉が亡骸を守るように敷き詰められていた。ベートーヴェンの墓には最も多くの枝葉が置かれ、冷雨にさらされながら健気に1本のロウソクに火がともされていた。人類に大きな影響を及ぼし続ける稀代の革命児は、今なお最も多くの人々から愛されているようだ。モーツァルトは後日訪れるザンクト・マルクス墓地に埋葬されており、ここに墓はない。しかし市民にとってモーツァルトは別格だ。取り巻く大御所たちの中心には、彼らを代表するように神童の碑が据えられていた。降り注ぐ雨も気に留めず、その場に立ち尽くした。
 ベートーヴェンとシューベルトは当初市内のヴェリング墓地に埋葬された。半世紀後、墓地の閉鎖とともに、二人の亡骸は現在の中央墓地へ移送される。ヴェリング墓地はやがて1923年にシューベルト公園と名を変え今日に至る。両雄の墓碑は当時のまま残されているそうだ。二人は一時住居が近接するも接点に恵まれなかった。ベートーヴェンの隣で眠りたいとは、楽聖を熱烈に尊敬していたシューベルトの遺言によるという。
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コンツェルトハウス

2007/12/26 21:11
 平成15年10月11日、この日もフリードリヒシュトラーセ駅を起点に、昨日より東側を散策した。公演情報を確認する為にベルリン交響楽団の本拠地コンツェルトハウスへ向かう。戦後西側に属したベルリン・フィルに対抗するため、東側にベルリン交響楽団が創設された。この街にはアテネ神殿を模した建物が多く、連邦議会議事堂やブランデンブルク門同様、コンツェルトハウスも石柱そびえるエキゾチックな外観だ。玄関は石段下の半地階にあった。この夜、エリアフ・インバル氏の公演が予定されていた。破格の15ユーロだ。迷わずチケットを購入する。建物前にはジャンダルメンマルクトという石畳の広場があり、ホテルマンの衣装を着た道化師が回転式のオルガンを演奏していた。
 フンボルト大学向かいの国立歌劇場へ寄るが、まだ開館しておらず、更に東のベルリン大聖堂へ向かった。西に延びる6月17日通りの反対、東方面にはウンター・デン・リンデンが延びている。オープンカフェなどが軒を連ねる目抜き通りだ。左手にベルリン大聖堂が見えてきた。長旅の疲労で感覚が鈍っているためか、当たり前に大聖堂があり、ずっとここに住んでいるような奇妙な感覚になった。それでもロマネスク様式の威容は半端ではない。様式から尖塔は存在しないが、聖堂部の天蓋の高さは114メートルとケルン大聖堂の倍以上。ケルン大聖堂が峻厳なエベレストとすれば、ベルリン大聖堂は大地に横たわるキリマンジャロといったところか。内部も圧巻だ。天窓から採光された真っ白な光が広大な空間いっぱいに広がり、整列した座席をあまねく照らしていた。中央付近の席に座りうとうとしていると、パイプオルガンの演奏が始まった。時を告げる合図かと心地よく聞いていると、観光客の視線が後方の入口へ集まった。振り返るとタキシード姿の新郎とウェディングドレスに身を包んだ新婦が絨毯の上を祭壇方向へ歩いていた。結婚式だ。スレンダーな金髪の花嫁には白いヴェールが映える。祭壇に近い前部は親族しか立ち入られないようになっていたが、後部は誰でも自由に出入りできる。観光客は総立ちで暖かい拍手を送っていた。祭壇では牧師の導きにより誓いの儀式が30分ほど進行し、主役たちは玄関へ退場した。半分眠りながら眺めていたが、微笑ましい場面に遭遇した充実感に包まれた。どこの国でも人の幸せは同じだ。最後に270段の階段を克服し展望台へ昇った。
 市内に作曲家メンデルスゾーンの墓があるが場所がわからない。ハンブルクに生まれライプツィヒで後半生を過ごした彼はベルリン市内の一族の墓に埋葬されている。赤の市庁舎近くのレストランで相席した教授風のおじさんに聞いてみると「確かベルリンにあるはずだが・・・」との返答だ。「本屋で調べてみてはどうだろう」と、親切にもウンター・デン・リンデンにあるガイドブックが充実した本屋を教えてくれた。ソーセージ料理に舌鼓を打った後、早速本屋へ向かった。しかし墓のことはどの書籍にも掲載されていなかった(それもそうか)。結局楽壇の若き俊英の墓はお蔵入りとなった。
 雨が降ったりやんだりで早めにコンツェルトハウスへ戻る。私の席はステージに向かって左側面の3階席だ。クロークに荷物を預け、逸る心を抑え階段を上がる。ホールのドアを開ける刹那、タキシード姿の案内係に止められた。どうやらまだ準備中ようだ。私はとっさに「まだ?」と日本語で反応した。その反応が貴重な出会いの端緒となった。20代前半の案内係は「日本人ですか?」と日本語で反問した。ここの案内係は語学万能かと驚いたが、聞けばフンボルト大学で日本語を勉強しているとのこと。案内係はアルバイトのようだ。青年も話したかった様子で、仕事中に関わらず会話が弾んだ。彼には留学で来ている日本人の恋人がいるようだ。道理で達者だ。淡路島出身なので、関西弁を習得したいが慣れていないという。私は標準語で話すよう努めた。関西人にとってイントネーションを封印するのは意外に困難だ。青年はこの春日本に5週間滞在し、大阪、京都、東京、札幌と回った。日本は物価が高いと嘆いていた。阪神タイガースが優勝したので恋人がはしゃいでいると語る表情は実に愉快だ。旧東ベルリン市民で少年期を壁の東側で過ごしたという。恐る恐る東ドイツについて尋ねてみた。すると意外にも「子供たちにとって西側より遊びが裕福だった」とのこと。労働者への締め付けが厳しいとされた旧ソビエト体制だが、子供には寛容だったのだろうか。本心なのか推し量れないが、少し衝撃を受けた。開演の時間が迫ったので別れた。良い出会いだった。来年中央大学へ留学するかもしれないという。
 座席はオーケストラを真横から見下ろす位置だ。パイプオルガン前に陣取る合唱団が目の前に並んでいる。インバル氏はNHK交響楽団の名誉指揮者として日本でも有名だ。ベルリオーズ作曲の劇的交響曲「ロミオとジュリエット」は今まで聴こうと思いながら一度も聞いたことがない。シェークスピアの同作に感銘を受けた作曲家によって1839年に完成した。当初オペラとして計画されたが、前年他のオペラで失敗し、失意の中「劇的交響曲」という新形態に変更された。オーケストラと独唱者、合唱団の大編成を要する大曲で、交響曲、オペラ、オラトリオの要素を備えている。伝統的な形式に捉われない奇才ベルリオーズの真骨頂だ。ベートーヴェンやシューベルトの全盛期、ドイツ・ロマン派を横目に異端な傑作を次々に送り出した。音楽史上にもたらした著名な功績はふたつある。ひとつは動機の概念を一歩推し進め「固定楽想」を編み出したこと。固定楽想は登場人物ごとに旋律を決定し、それを変奏することで各々の感情を表現する手法だ。情景描写の効果が大幅に向上し、標題音楽の飛躍的な発展に貢献した。標題主義はリストの交響詩へ昇華し、固定楽想はワーグナーの「誘導動機」へと受け継がれる。ふたつ目の功績は近代管弦楽法を確立したこと。ベルリオーズは大編成の管楽器や当時それほど重用されていなかったトライアングルやハープといった色彩感豊かな楽器を積極的に取り入れた。またヴァイオリンの弦を弓の背で叩くなど奇抜な奏法で音の絵の具を増やした。著書『近代管弦楽法』は後の宝鑑となり、そのオーケストレーションはリヒャルト・シュトラウスによって大成される。奇行が多く、ふられた恋人の銃殺を図るなど、音楽同様、激情の持ち主だ。
 インバル氏の演奏は、その体躯に輪をかけた大きなジェスチャで迫力があった。体ごとぶつかる骨太な音作りは気魄満点。タクトさばきはまるで横綱の電車道。作曲家独特の軽妙でメランコリックな音階が随所に見られ、初めて聴く割には楽しむことができた。演奏後、さきほどのアルバイト学生を探したが、既に帰ってしまったようだ。ちなみに「アルバイト」はドイツ語で「仕事」という意味の名詞だ。なぜ現在日本で使われる意味になったのだろうか。
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こびと

2007/11/25 23:03
 びわ湖ホールにてオペラを鑑賞しました。演目はツェムリンスキー作曲の歌劇「こびと〜王女様の誕生日〜」。大浦君が副指揮者としてこの公演に携わっており、数ヶ月前から楽しみにしていました。指揮はびわこホール芸術監督の沼尻竜典さん。主人公のこびとを演じるのは国内屈指のテナー福井敬さん。欧州の歌劇場にも引けを取らない贅沢な布陣です。沼尻さんは今年1年間ツェムリンスキーの企画を同ホールで進め、この日の上演はシリーズの締めくくりになるそうです。私はツェムリンスキーの名をこの公演で初めて知りました。19世紀後半から20世紀前半にかけて活躍した聞きなれない作曲家の名は、しかし当時シェーンベルクや、後のマーラー夫人となるアルマを弟子に持っていたことから、相当著名であったことが伺えます。大雑把に分類すると作風は後期ロマン派に位置しますが、後にシェーンベルクが十二音階技法を編み出したことで、新旧のエアポケットに埋没してしまったといえます。本公演はシリーズの総括であると同時に、何よりオペラ形式での国内初演という記念すべきものです。
 全1幕ですが、開始前に作品についてのイントロダクションがありました。俳優内田紳一郎さんが原作者オスカー・ワイルドを演じ、沼尻さんがツェムリンスキーをピアノを弾きながら演じることで、手短にその生涯と作品の聞きどころを紹介します。多くの聴衆が未知であろう作曲家について、少しでも理解を広めようとの工夫が見られました。解説内容は興味深いものでしたが、何よりオペラの敷居を下げ、演奏者と聴衆の距離をぐっと縮める効果があったように思います。沼尻さんはイントロダクションでそれぞれの登場人物や場面を象徴する動機(固定楽想)を弾きながら解説しました。その中のこびとのテーマを聞き、耳を疑いました。ひどく悲しいのです。遣る瀬無い深い悲しみを感じ、このオペラが悲劇に終わることを悟りました。
 物語は果たして惨めなものでした。自分の容姿を鏡で見たことがない醜いこびとが、王女に恋をします。王女はそれまで面白半分に相手をしていたこびとを避け始めます。ある時自分の姿を鏡で見たこびとは、おのれの醜さに慄き、その衝撃が引き金となって息を引き取ります。記録によればツェムリンスキーも風采が上がらない男だったようです。弟子のアルマに恋をしますが、結局アルマはマーラーと結婚します。アルマがツェムリンスキーのことをこれほど醜い男を見たことがないと述懐していることから(師匠ですよね?)、その程度が伺えます。こびとが作曲家自身であることは疑いないでしょう。
 上演中、ひとりの出演者に圧倒されました。言うまでもなく、こびと役の福井敬さんです。ひとりの声が放つパワーの大きさを初めて肌で感じました。鏡を見た瞬間の絶叫は、どのような絶叫よりも絶叫でした。脳の感覚がそのまま口から飛び出たような、純粋な恐怖の発現です(だからどこか高貴なのです)。クライマックスの死に至る場面では、ただただ悲しみが、悲しみ以外の何も残らないような、咽ぶような悲しみだけが舞台に転がっていました。演出、オーケストラ、すべての効果が相俟って到達する境地に違いありませんが、福井さんの表現力が大部分を占めているように思いました。
 舞台上、こびとによって覆いが外された鏡は枠だけでした。枠の向こうからこびとがこちら(客席)を見ながら尻餅をついて慄いているのです。なるほど、こびとがこちらを向くことで、客席にその恐怖が伝わると膝を打ったのですが、後で大浦君に聞くと、演出家の加藤直さんは別の意味も持たせていたようです。こびとが鏡を通して驚愕に震える相手は、客席にいる我々人間だったのです。人間こそ、真に醜い存在であるとの皮肉が込められていたようです。舞台装置や道具類はシンプルかつ明快で雑多さを感じませんでした。演出の妙味にも感心しました。
 一週間前京都四条で飲んだ際、大浦君から借りていたものがあり、この日返す約束をしていました。楽屋からの出口で待っていると、数人の出演者に続いて、福井さんが出て来られました。奥さんとお子さんを連れられた姿は優しいパパでした。舞台を悲劇一色に染めた面影は微塵もありませんでした。その後沼尻さんが出てこられました。大浦君はまだ中にいるのだろうか、心配になり沼尻さんに聞いてみると、まだ中にいるよということで、呼んでくださいました。最後に出てきた大浦君とお茶を飲み、琵琶湖を後にしました。
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ベートーヴェンの生涯

2007/11/04 22:30
 最近仕事量に比例して、読書量が増えています。現実逃避ではなく(無論多少はそういう作用があるにせよ)、生活に必要なエネルギーを本から受けているような気がします。今までは忙しければ、読書が進みませんでした。しかし今は時間がないほど進みます。良い本に出会えた幸福は、人との出会いと同じではないでしょうか。このたび以前から目をつけていたロマン・ロラン著『ベートーヴェンの生涯』(片山敏彦氏訳)を手に取りました。憚りなく明言します。私はこの本に出会えて幸福です。小林秀雄著『モオツァルト』に比肩し得る、否、それ以上の、モーツァルト贔屓の私をぐっとベートーヴェン側に引き寄せる快作です。表題の通り楽聖の人生を綴ったものですが、単にひとりの音楽家の足跡を描いたものではなく、革命時代に生きた偉大な魂の苦悩と勝利を克明に、我が身の禍福の如く描写しています。クラシックに興味のある方はその生涯が不遇の連続であったことをご存知でしょう。ここでは音楽はひとりの苦悩の化身が生み出し、世に残した媒体に過ぎません。序文の執筆動機を引用します。
私は歴史家である。しかしそれは私が歴史家であるべき時においてのことである。(略)しかしこの『ベートーヴェン』は学問のために書かれたわけでは全然ない。これは、傷ついている魂から生まれた一つの歌であった。これは息のつまっている魂が呼吸を取りもどし、再び身を起こして、その「救済者」にささげる感謝の歌であった。・・・(略)だから不幸な人々よ、あまりに嘆くな。人類の最良の人々は不幸な人々と共にいるのだから。その人々の勇気によってわれわれ自身を養おうではないか。(略)人生というものは、苦悩の中においてこそ最も偉大で実り多くかつまた最も幸福でもある、というこのことである。(片山敏彦氏訳)

 全文を引用することができないのが残念です。矜持と不羈の鬼才ベートーヴェンは貴族に媚びることを嫌い、共和制運動を牽引したナポレオンが、その後皇帝に即位したことに激昂しました。
1809年の5月10日にはナポレオンがシェーンブルンに泊まる。ベートーヴェンは間もなくフランスの勝利者たちを憎むようになるが、しかし彼らの英雄詩的行為に対する熱情を彼は依然として感じつづけていた。この熱情をベートーヴェンほどに感じ得ない者は、彼の行為的な、そして堂々たる凱旋の調子を持つ音楽を、半分しか理解できないであろう。(片山敏彦氏訳)

 ベートーヴェンの音楽は人類への愛が間欠泉のように噴き出しています。その人類賛歌は1793年から構想を練っていた『歓喜への頌歌』、いわゆる交響曲第9番によって昇華します。『歓喜への頌歌』は、古典主義文学の巨匠シラーが遺した詩です。ベートーヴェンは1770年生まれ、1827年没なので、人生を半分も経過していない頃から、この自由思想の作品にインスパイアされていたことになります。1799年に交響曲第1番が完成したことを考えると、その交響楽人生をすっぽり覆う大規模な着想といえるでしょう。長年、この詩を扱った楽曲を人生最高の作品に位置づけることを夢見てきたゆえ、制作には随分神経を尖らせていたようです。大盛況だった第9初演直後に至ってなお、第10番以降への発展を検討していたといわれています。果たして楽聖は第10番の構想段階で世を去りました。現在世界中で歌われる史上最高のシンフォニーは、実は楽聖にとって道半ばで放たれたものだったのかもしれません。物語は以下の文章で締められています。
不幸な貧しい病身な孤独な一人の人間、まるで悩みそのもののような人間、世の中から歓喜を拒まれたその人間がみずから歓喜を造り出す-------それを世界に贈りものとするために。彼は自分の不幸を用いて歓喜を鍛え出す。そのことを彼は次の詩らしい言葉によって表現したがこの言葉の中には彼の生涯が煮つめられており、またこれは、雄々しい彼の魂全体にとっての金言であった--------『悩みをつき抜けて歓喜に到れ!』(片山敏彦氏訳)

 読後、頭の中に「運命」の勝利のファンファーレが響き、鳥肌が収まりませんでした。ベートーヴェンは1802年に難聴の進行と、失恋の痛手から生きる望みを失い遺書をしたためます。ふたりの弟に宛てた有名な『ハイリゲンシュタットの遺書』です。目に留まった一文を引用します。
お前たちの子らに徳性を薦めよ。徳性だけが人間を幸福にするのだ。金銭ではない。私は自分の経験からいうのだ。惨めさの中でさえ私を支えて来たのは徳性であった。自殺によって自分の生命を絶たなかったことを、私は芸術に負うているとともにまた徳性に負うているのだ。(片山敏彦氏訳)
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ファウスト

2007/10/29 00:11
 『ファウスト』はドイツ古典主義文学の文豪ゲーテが60年を費やして完成させた戯曲です。解説を読むまで知りませんでしたが、物語は16世紀末にドイツで流行した伝説が原型となっているようです。ファウスト博士は諸般の学問を究め、魔術に手を出すも、この世の真理を何もつかむことができず、己の能力に限界を感じ自殺未遂を起こします。ある夜、犬の姿で現れた悪魔メフィストーフェレス(以下メフィスト)と契約を結びます。
---悪魔)あなたがこの世にある限りは、わたしの術でたんと面白い目を見せて差し上げます。まだ人間が見たこともないような面白いものをね。---博士)己がある刹那に向かって「とまれ、お前はあまりにも美しい」といったら、己はお前に存分に料理されていい。己は喜んで滅んで行く。(高橋義孝氏訳)

 かくして、ファウストとメフィストは現世と冥界の間を飛び回り、放蕩の限りを尽くします。博士は若い娘グレートヒェンを恋愛の末妊娠させ、彼女の母と兄を殺害してしまいます。世間から蔑まれたグレートヒェンは赤ん坊を水中に沈め、投獄された後神の裁きを受けます。第2部でも、古代スパルタ王妃の美女ヘレネーを蘇らせ結ばれるなど、様々な奇想天外な体験をしますが、どれもファウストを満足させるには至りません。
 そして皇帝から割譲された土地で最期を迎えます。
---博士)「日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、自由と生活とを享くるに値する」そしてこの土地ではそんな風に、危険に取り囲まれて、子供も大人も老人も、まめやかな歳月を送り迎えるのだ。己はそういう人の群れを見たい、己は自由な土地の上に、自由な民とともに生きたい。(高橋義孝氏訳)

との生涯の理想的結論を掲げ、”「とまれ、お前はあまりにも美しい」”と発します(メフィストの軍門に下るつもりで言ったのか、意図せず漏らしてしまったのか、判然としない)。元来巷間に流布する伝説では、ファウストは悪魔の手に墜ち、地獄で罪業に苛まれる結末となっています。しかし、18世紀に入りファウストの魂が救済される結末が主流となり、ゲーテもこの思想に従います。“「絶えず努力して励むものを、われらは救うことができる」”との天使の意思により天上へと引き上げられたファウストの御霊は、同じように救済されたグレートヒェンの魂とともに聖母の御許へと導かれ、物語は締められます。
 この不滅の大傑作は、以降の音楽家たちにも影響を与えました。私は中でもリスト作ファウスト交響曲と、マーラー作交響曲第8番(千人の交響曲)を好みます。前者リスト作は、第1楽章「ファウスト」、第2楽章「グレートヒェン」、第3楽章「メフィストーフェレス」の副題がついており、物語性は影を潜め、交響詩的な主題を活かした人物描写に重点が置かれた構成です。第1楽章ではファウストの深遠な苦悩と超人的なエネルギーが躍動し、第2楽章ではグレートヒェンの純真さと運命の悲哀が諦観的に流れ、第3楽章ではメフィストの滑稽かつ破滅的な律動がダイナミックに表現されています。終結部では『ファウスト』第2部第5幕の末尾(以下翻訳部)が厳かに歌い上げられます。後者マーラー作は第1部と第2部に別れ、第2部は『ファウスト』第2部第5幕の終結部(「峡谷、森、岩、荒地」から以下翻訳部まで)がごっそり用いられています。マーラーはこの作品にて「復活」(交響曲第2番)で表現した救済思想を推し進め、神の栄光と祝福を高らかに歌い上げます。また、指揮者メンゲルベルクに宛てた手紙の中で、自身の過去の交響曲はすべてこの曲(交響曲第8番)の序曲に過ぎないと述懐していることから、この曲に込めた甚大な思いを伺い知ることができます。創造的な愛(エロス)の発散が、肉体と精神の発露となるゲーテの主張を、マーラーはそのまま自身の哲学的解答として引用しています。第2部第5幕の末尾を翻訳してみました。人間は天界に導かれてこそ(懸命に生き、死に至ってこそ)、その形(人生)が完成するという意味でしょうか。
Alles Vergangliche すべての無常は
Ist nur ein Gleichnis; 寓話でしかない
Das Unzulangliche, 成就せざるものは
Hier wird's Ereignis; ここで成就する
Das Unbeschreibliche, 言い表せぬことが
Hier ist's getan; ここでなされた
Das Ewis-Weibliche 不滅の母性が
Zieht uns hinan. 我らを上方へと導く

 以前、第1部の舞台、ライプツィヒのアウエルバハの酒場を訪れたことがあります。
 平成15年10月13日午後7時、旧市庁舎横にある学生時代のゲーテ像を見る。ライプツィヒ大学の創設はドイツ(神聖ローマ帝国)で3番目に古く、ゲーテ、ニーチェ、森鴎外がここで学んだ。森鴎外は1912年に『ファウスト』を邦訳している。若きゲーテ像は機知に富んだ佇まいだが、まだ青さを漂わせていた。『ファウスト』の舞台となった酒場、アウエルバハの酒場が商店街の入口にある。階下へ続く通路左右の階段の脇には、一方にファウストとメフィストの像が、もう一方に三人の若者の像が立っていた。ファウスト博士はマントを羽織った聖職者風のいでたちで、傍らの悪魔メフィストは右手で対岸の若者を指していた。背中が曲がった悪魔は骨と皮だけのみすぼらしい体躯だが、想像より人間の形をしている。対面のひとりの若者はメフィストに冒涜され酔いも手伝い今にも暴れ出しそうだ。二人の仲間がその脇を必死に抑えていた。
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暗門の滝

2007/08/18 13:23
 全国を旅したいと思い始めたのは、そう昔の話ではありません。未踏の都道府県が残り少ないことに気づき、昨年から今年にかけて憑かれたように動き回りました。15日、青森県と秋田県にまたがる白神山地を一周し、ひとまず目標にしていた全都道府県を制覇しました。また先日登録された石見銀山を除くすべての国内世界遺産に赴いたことになります。宿も予約せず、行き先も時々の状況によって判断する、今までの旅を象徴する無鉄砲な行程でした。
 13日、新幹線で八戸まで行き、特急スーパー白鳥に乗って青函トンネルを潜りました。鉄道トンネルとして世界最長の53.9kmの長さです(2007年現在)。海底の100m下を走り、最深部は海面から240mに達するとの車内放送がありました。北海道を訪れるのは約10年ぶり二度目です。一度目は航路と空路を利用したので、この度青函トンネルを初めて潜ることになります。車内の電光掲示板には、トンネルの解説や現在の地点が表示されます。最深240m部分のトンネル壁面には青と緑の蛍光灯が目印として並んでいました。既に北海道新幹線も走行できる状態で、八戸止まりの東北新幹線が新青森まで延伸し、2015年には新青森駅と新函館駅間が開業される予定です。その先は時期未定ですが、小樽、札幌、旭川へ延びる計画だそうです。トンネル貫通に要する未曾有の大工事は試練の連続で、ドキュメンタリー番組でその様子が放送されていたのを思い出し、窓外の暗闇を厳かな心境で見入りました。
 14日朝、路面電車で五稜郭へ向かいました。五稜郭タワーの展示資料で初めて知りましたが、国内に稜堡式城郭はふたつあり、もうひとつは長野県の龍岡五稜郭になります。1866年に完成した函館五稜郭は、日米和親条約締結時の函館(当時は箱館)開港に伴う防護増強のために造成されました。幕府の命令を受けた西洋軍学者、武田斐三郎によって設計されています。技術革新により砲撃距離が伸びたこと、旧来の日本式城砦はかかる費用が莫大であったことから、江戸末期にはこれら野戦型城砦が推進されたようです。五稜郭といえば、榎本武揚ら佐幕派が蝦夷共和国を樹立させた中心地ですが、何より土方歳三が最期を遂げた場所として有名です。
 1869年5月11日、箱館一本木関門から出撃した元新撰組副長は、現在の若松町で流れ弾に当たり35年の人生に幕を下ろしました。遺体の行方は知れないとされていますが、函館駅から徒歩10分程の場所にある若松町総合福祉センターの敷地内に、最期の地を示す碑が建てられています。碑の前には土方歳三の写真と戒名が据えられ、一本の灯った蝋燭と、数本のアジサイが生けられていました。脇には一本木関門が再現されており、馬上で太刀を振るい孤軍奮闘する陸軍奉行並(蝦夷共和国での役職)の猛々しい姿が目に浮かびました。土方の戦歴を顧みるにその戦術能力の高さに目を見張ります。政治的イデオロギーやテロリズムは乱世やむなしですが、武士道の極みといえる志の高さに後世の人々は敬慕の念を寄せます。高い理想を掲げ初志貫徹する潔さが魅力を増すのでしょうか。畢竟完全な初志貫徹は滅亡への一途かもしれません。古今東西、英雄と呼ばれる者は、大概が志半ばで倒れているようにも思えます。最期の碑には、日に焼けた若いカップルがお参りに来ていました。
 五稜郭内部はきれいに手入れが行き届き、草花が生い茂り、野鳥が羽を休める長閑な公園となっています。堀に巻かれた五芒の土塁を歩きました。快晴にも関わらず、雑草は雨後の如く水滴を宿し、しばらく行くと靴が濡れます。多量の水分を含んだ土壌から快晴の熱気で水蒸気が湧くのでしょう。キノコが生えているところもありました。隣接する五稜郭タワーの土産物屋の多くが、土方歳三グッズで占められていました。時代を超えた驚異のカリスマは、永久にこの地に生き続けるに違いありません。
 駅前の市場は蟹や魚介であふれていました。前夜少々値が張る海鮮丼を食べたので、簡単に昼食を済ませ正午函館を後にしました。特急スーパー白鳥と特急いなほを乗り継ぎ、夕方秋田に到着しました。念願の白神山地への足がかりにしたいと観光センターで情報を集めましたが、秋田から白神山地へ行くバスは一切なく、交通手段はレンタカーしかないことが判明しました。日没前でしたが、能代まで戻り、この日は能代で宿泊しました。
 15日朝、カローラを借り、五能線沿いを北上しました。夏風に吹かれ太陽を照り返した日本海の際を快走します。普段自宅では軽自動車を使用しているので、普通車の加速が心地よさに拍車をかけます。途中道路脇に秋田名物ババヘラアイスのパラソルを目撃しました。反対車線だったので次に見かけたら買おうと見過ごしましたが、結局その後青森に入り、味わうことはできませんでした。出発時点では暗門の滝へ行くつもりはなく、秋田県側の山林を楽しんで帰る計画でした。しかし、運転していると、暗門の滝まで行ってみたい衝動に駆られ始めました。急遽目標を変更し、陸奥岩崎から県道28号線(通称白神ライン)を弘前方面へ向かいました。道路は途中から未舗装で、ブナの原生林に囲まれた砂利道を抜けるのに2時間くらいかかりました。前の車や対向車が巻き上げる砂塵に突っ込み、車の底にはタイヤが弾き上げる石ががんがん当たります。ハンドルを握る手にも力がこもります。うんざりしてきた頃に津軽峠を通過し、14時頃ようやく暗門の滝入口の駐車場に到着しました。弘前から津軽峠まで路線バスが出ているようで、わざわざ遠回りした無計画性に天を仰ぎました。しかし、秋田方面からアプローチしたことで、五能線沿いの絶景に触れることができたのは幸運です。
 ここから滝へは歩いて行かねばなりません。美山湖に注ぐ暗門川の清流を遡ります。岩場に遮られる箇所には鉄パイプで組まれた通路が仮設されており、充分な注意はいるものの、比較的安全に散策できるようになっています。滝は3つに別れ、まず登場するのが落差26mの第三の滝です。ここから勾配は急になり、通路は階段状になります。汗を滴らせながら、落差37mの第二の滝へと到達しました。飛沫を上げる滝は徐々に神々しさを増すようです。駐車場を発ってから約1時間を経過した15時頃、落差42mの第一の滝が姿を現しました。今まで私が見た滝とは趣が異なります。大きさではありません。コップ状の地形が生む気流からか、大量の飛沫がこちらに向かって吹き付けてきます。こちらに向かって吹き付けられた飛沫が下流からの風で舞い戻り、時に滝に向かって逆流します。2、3分するとずぶ濡れになります。水の精霊に守られた滝壺の奥に超自然的な存在を感じました。断崖の流出口からは後光のように日光が輝き、まるで光が飽和し水流となって湛えるようです。厳粛たる美。自然の魅力がわずかな空間の中で凝縮され、展開され、訪れる者の頭上に洗礼を浴びせるようです。日常の様々なことに思いを巡らせました。滝は本当に大切な答えを私に与えてくれたようです。足元に流れる滝壺の水を顔面に刷り込み、滝を後にしました。
 余韻に浸りながらゆっくり下山しました。レンタカーを返すため、20時までに能代へ戻らねばなりません。当てにしていた釣瓶落峠への林道が災害閉鎖されており、弘前周りでのルートを余儀なくされました。カーナビが弾き出した到着予定時刻は20時ぎりぎり。東北自動車道から大館、二ツ井を経由し、何とか返却時間に間に合わせることができました。
 この度、ひとつの大きな目標を達成することができました。しかし私にはまだまだ行きたい場所がたくさんあります。本当の旅はこれからです。
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モーツァルトの生家

2007/07/22 03:01
 平成13年1月30日朝、ウィーン西駅発の特急列車はザルツブルクへと向かった。中途リンツに停車した。街の名はモーツァルトの交響曲36番の副題として有名だ。作曲家は1783年(27歳の時)帰省したザルツブルクからウィーンへの帰途、演奏会のためリンツに立ち寄った。交響曲は速筆を象徴するように4日間で書き上げられた。奮発し一等客室に身を委ね、「世界の車窓から」さながら町並みを楽しんだ。作曲家アントン・ブルックナーはここのザンクト・フローリアン修道院のパイプオルガンの下に埋葬されているという。車内のビュッフェでご当地のビーアを嗜み、旅の疲れから転寝をしている間、雪原を駆ける列車は神童の故郷との距離を縮めた。出発から3時間後の正午、夢に見た幻想的なザルツブルクが静かに姿を現した。
 ザルツブルクは中級河川ザルツァッハを挟んで新市街と旧市街に分かれている。駅は新市街側にあり、川を渡るとモーツァルトの生家やホーエンザルツブルクといった名所が軒を連ねる旧市街となる。ホテルにチェックインし、かつてモーツァルト一家が住んだアパートに隣接するカフェで、仔牛のフィレ肉を食べた。チップの習慣になれていなかったため、ウェイタにお釣りを与えるのを忘れ、少々不服そうな顔をされた。雪化粧が施された住居や教会を眺めながら橋を渡った。建造物は歴史を感じさせるものばかりで、夢か現か判然としない奇妙な感覚に陥った。
 季節に関係なく観光客で賑わうゲトライデガッセに、写真で見慣れた黄色い建物があった。オーストリアは主要な歴史的建造物に赤白2色の国旗を掲げている。この黄色い住居は他のどの城砦や大聖堂よりも遥かに大きな国旗を下げていた。明らかに違う格付けだ。後にヨーロッパを驚嘆の渦に巻き込み、今なお多くの人々に愛され続けているヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、1756年1月27日夜、この建物の4階で産声を上げた。小学生の頃、学校の図書室である絵本を読んだ。何月何日世の中で何が起きたかを1日1ページずつ、365日紹介する内容だった。以来私はモーツァルトと誕生日が同じであることを頭の片隅に記憶し生きていくことになる。非才浅学で何の取り得もない私が天才の音楽に出会ったのは、それから何年も後のことだった。高校1年生の1月、ある出版社から刊行された雑誌は、今では書店で頻繁に見られるようになったムック(ビジュアル専門書)の先駆的存在だった。クラシック音楽の作曲家とその作品を隔週毎に紹介するもので、質の高い資料と一流レーベルのCDがセットになっていた。テレビCMを見た私はただならぬ欲求を感じ、クラシックが自分に有益なものになる予感がした。本当に不思議な感覚だった。あの時この雑誌が発刊されていなければ、現在おそらくクラシックを聞いていないだろう。
 洞窟のような狭い回廊を歩くと感覚がタイムスリップする。各階のフロアには馴染みの肖像画を始め、楽譜、叢書が陳列されており、光彩衰えぬ天才の魅力を余すことなく伝えていた。封建時代、宮廷に就職することが平民音楽家の価値を決めた。幼少より楽才を発揮した彼は、宮廷楽士だった父に連れられヨーロッパの方々へ演奏旅行に出かけた。幼いマリー・アントワネットの足にキスをして「ぼくのお嫁さんにしてあげる」と発した奔放な振る舞いは終生続く。しばしばその言動は品位を問われる最大の弱点でもあった。時に『フィガロの結婚』などの貴族社会を風刺するオペラを発表した。どの作品からも天才的な遊び心が時折顔をのぞかせる。人間離れした人間臭さこそ彼の音楽の真髄だ。今モーツァルトが生きていればどのような音楽を書くだろう。
 1月3日、ウィーンに戻るとオペラ座からケルントナー通りを北上した。市一番の目抜き通りは買い物客で賑わっていた。ほとんどの店にモーツァルトの肖像が印刷されたボール型チョコ「モーツァルト・クーゲル」が積まれていた。ビター好みの日本人に反したねっとりした甘さが特徴だ(海外のチョコはだいたいこんなもの)。リンク(環状道路)の中心には市の象徴シュテファン寺院がある。改装の為外壁の一部がネットで覆われていた。相当巨大な大聖堂だ。南塔の高さ137メートルは通天閣を遥かに超える。1147年に建造が開始され、完成したのは14世紀半ば。ロマネスク様式を経て、最終的にゴシック様式でまとめられている。キリスト教最初の殉教者、聖シュテファンからその名がとられた。地下のカタコンベにはハプスブルク家の王族の内臓とペストで亡くなった2000人もの遺骨が納められている。祭壇付近に1452年に神聖ローマ皇帝に就いたフリードリヒ三世の墓がある。彼はハプスブルク家出身初の帝国皇帝で、帝国における王家の地位を確固たるものにした。ちなみにモーツァルトは1782年8月4日この寺院で19歳のコンスタンツェ・ウェーバーと結婚式を挙げた。またコンスタンツェはモーツァルトの死後、その葬儀を寺院に外接した礼拝堂で行っている。寺院南側の路地を少し下ったところにモーツァルトが1784年から1787年まで住んだ「フィガロ・ハウス」がある。絶頂期の天才はここで歌劇『フィガロの結婚』などの傑作を次々と作曲した。
 私の好きなモーツァルトの作品を紹介したい。協奏交響曲変ホ長調K.364だ。協奏交響曲というジャンルはマンハイム楽派を中心にモーツァルトの時代に発展した。編成はバロック音楽の合奏協奏曲に似ており、ロマン派以降の複数の独奏者のために書かれた協奏曲の前身のような存在。このK.364はヴァイオリンとヴィオラのために書かれている。モーツァルトは他に2曲の協奏交響曲を作曲しており、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットのためのK.297bと、フルートとハープのためのK.299がある。K.364は1779年にザルツブルクで作曲された。モーツァルト自身がザルツブルクの宮廷楽団でヴィオラを担っていたことから、独奏ヴァイオリンと競演し腕前を誇示したかったとの説がある。普段縁の下で演奏を支えるヴィオラが、ヴァイオリン同等のヴィルトオーゾを見せる。私はこの第一楽章が好きだ。人智を超えた愉悦感がほとばしっている。音楽が音楽自身の意思によって自らの存在を底抜けに楽しんでいるような。どのような言葉も陳腐だが・・・。
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夏目漱石

2007/07/04 01:27
 昨日、東京へ出張してきました。3日前に運行を開始した新幹線N700系は、従来の車体と比べ体への負担が少ないように感じました。業務後、雑司ヶ谷にある夏目漱石の墓を訪れました。雑司ヶ谷は池袋駅から歩いて行ける距離です。緑豊かな霊園の枝葉からのぞく高層ビルに、異様なギャップを感じました。広い敷地をひとまわりし、目当ての墓を発見しました。安楽椅子をイメージした墓石はやや大型で、どっしり腰が据わった特徴的な形をしています。表面には大きく「文献院古道漱石居士」と彫られ、背面には「大正五年十二月九日歿 俗名夏目金之助」とありました。私は漱石の作品を少なからず読んでいます。享年50歳、『明暗』の完成を残し、近代文学界の巨人はどのような思いで眠りに着いたのでしょうか。作品群が持つ物語の親しみ易さは、今日まで大衆に受け入れ続けられている大きな要因です。
 代表作『坊ちゃん』の舞台、松山の道後温泉。本館の3階には休憩できる小部屋がいくつもあり、突き当たり右側の角部屋に漱石氏が好んで休んだといわれる「坊ちゃんの部屋」が公開されています。6畳ほどの広くない部屋ですが、当時と変わらぬであろう障子戸に板張りの縁側、木目の欄干は趣に満ちています。欄干から身を乗り出すとホテルや飲食店の看板が視界を遮りますが、当時文豪がこのように眺めを楽しんでいたことを思うと、幸福感を禁じえません。漱石は講演の中で、市民の孤独化が進む社会を警告しています。科学の進歩に伴い専門分野が細分化され、隣人同士の意識がますます乖離していく社会。精神的に孤立する現代人は、どこへ向かえば良いのでしょうか。
 『草枕』の冒頭の一文「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」は、漱石文学を代表する名文です。作家自ら評して曰く「天地開闢以来類のない」小説。実に筋が淡く、全体的にぼんやりしたつかみどころのない作品です。主人公は画家ですが、作中で絵を描くことはほとんどありません。本業よりも俳句や詩を吟じ、小説論を弁ずる場面が随所に登場します。画工は間違いなく作家の化身です。また聞きなれない難解な漢熟語を多用しており、たびたび読書の進行を憚られます。さすがにこれほど非日常の言葉を湯水の如く浴びせられるのは抵抗があります。しかし近年の作品と比較するに、日本文学の表現力が徐々に欠乏し、格調が低下している様子が感じ取れるのではないでしょうか。『草枕』には漱石の教養がみなぎっています。作中に陶淵明の詩『飲酒』が登場します。「只それぎりのうちに暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる」。主人公はそう賛辞を贈り、当時文壇が一斉に崇拝した西洋文学を牽制し、東洋にスポットライトを当てようと試みています。竜安寺の玄関に据えられた屏風に尾形乾山(光琳の弟)が墨痕鮮やかに大書したこの詩を懐かしく思い出しました。
結廬在人境  廬を結んで人境に在り
而無車馬喧  而も車馬の喧しき無し
問君何能爾  君に問う何ぞ能く爾ると
心遠地自偏  心遠く地自から偏なり
採菊東籬下※ 菊を採る東籬の下 
悠然見南山※ 悠然として南山を見る 
山氣日夕佳  山気日夕に佳し
飛鳥相與還  飛鳥相與に還る
此中有眞意  此の中に真意有り
欲辨已忘言  辨ぜんと欲して已に言を忘る
(※が『草枕』に引用されている箇所)

 内外の観光客が常に縁側を占める枯山水ですが、秋の夕暮れに庭を独占したとなれば、このような興趣が湧き起るであろうことは想像に難くありません。大自然を前にしても同じです。時が経つのを忘れ、心身と自然が一体となったときに吸収する色彩、香り、大気の音・・・。そこにあるのは幸福です。真の幸福を得たとき、人は言葉を発することができないものです。最後に、『草枕』から一節を引用しておきます。
余は画工である。画工であればこそ趣味専門の男として、たとい人情世界に堕在するも、東西両隣の没風流漢よりも高尚である。社会の一員として優に他を教育すべき地位に立っている。詩なきもの、画なきもの、芸術のたしなみなきものよりは、美しき所作ができる。人情世界にあって美しき所作は正である、義である、直である。正と義と直を行為の上に於て示すものは天下の公民の模範である。
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星の王子さま

2007/07/01 19:19
 フランス人作家サン=テグジュペリ(1900年生まれ)は、第二次世界大戦時、偵察として単機で出撃し、その後消息を絶ちました。44歳でした。航空への憧れに貫かれた人生は、人間社会を鳥瞰した特異な視点を育み、代表作『星の王子さま』は全世界で5000万部を超える、空前のロング・セラーを記録しています。原作の表題『Le Petit Prince』を直訳すると「小さな君主」。我が国で当たり前となった『星の王子さま』の名は、最初に翻訳した内藤濯氏が命名したといわれます。日本での著作権保護期間が終了したため、近年訳本が次々と書店を賑わし、しばしば「星の王子さま」と異なるタイトルに訳された書籍も目にします。この物語を読むと切ない気持ちになります。雑多な世事に埋もれるほど、王子様の純粋な心に打たれます。きんと澄んだ砂漠の真ん中、絶望と隣り合わせであるにも関わらず、蝶の翅のようにはかない王子様がいるだけで、もうそれで充分な気持ちになります。王子様は我々が昔誰でもそうであった赤ん坊の心の象徴なのかもしれません。このたびフランス語の原文を入手し、翻訳してみました。今まで内藤氏の訳本を読んでいましたが、翻訳してみることでサン=テグジュペリの真意がより伝わるようです。原文も平易な文体なので、フランス語に興味がある方にお勧めしたいです。
 王子はバラたちにふたたび会いました。
「君たちは全くぼくのバラとは違うよ。君たちには何の関わりもない」王子は言いました。「誰も君たちの面倒を見ていないし、誰とも仲良くしていない。出会ったときのキツネと同じだよ。キツネは最初、他の10万匹のキツネと同じだった。でも、ぼくはキツネと友達になったのさ。今では世界でたった一匹のキツネだよ」
 バラたちは困惑しました。
「君たちはきれいだよ。でも、からっぽさ」王子は言いました。「君たちのために死ぬことはできないよ。もちろん、何も知らない通行人は、ぼくのバラを、君たちと同じように見るだろうね。でも、ぼくのたったひとつのバラは、君たち全員より大切だよ。ぼくが水をやった花だからね。大切に守ってやった花だからね。ついたてを立ててやった花だからね。毛虫を追い払ってやった花だからね(蝶になるための2、3匹を残して)。不満や自慢話を聞いてやった花だからね。時々黙っているときでも気にかけてやった花だからね。ぼくのバラなのだからね」
 王子はキツネのところへ戻りました。
「さようなら」王子は言いました。
「さようなら」キツネは言いました。「さっきの秘密とはこういうことだよ。とても簡単さ。心でしか見ることができない。大切なことは目で見ることはできないのだよ」
「大切なことは目で見ることはできない」王子は忘れないように繰り返しました。
「君がバラのために費やした時間はとても大切だよ」
「ぼくがバラに費やした時間は・・・」王子は心に留めました。
「人々はこの真実を忘れてしまったのさ」キツネは言いました。「しかし君は忘れてはいけない。君は面倒を見たものに責任がある。君はバラに責任があるよ・・・」
「ぼくはバラに責任がある・・・」王子は忘れないように繰り返しました。

更に関西弁に翻訳してみました。最後は人生相談みたいになってしまいました。
 王子はバラたちにふたたび会いました。
「あんたら、さっぱりわてのバラとはちゃうで。あんたらには何の因果もおまへん」王子は言いました。「誰もあんたらの面倒見てへんし、誰ともあんじょうしてへん。会うたときのお稲荷はんと同じや。お稲荷はんは最初な、そこいらにぎょうさんおるお稲荷はんと同じやった。せやけど、わては連れになったんや。今では世間で一匹しかおらんお稲荷はんやで」
 バラたちは困惑しました。
「あんたらはべっぴんや。せやけど、何もおもろない」王子は言いました。「あんたらのために往生できへん。そらな、何も知らんよそ様は、わてのバラを、あんたらと同じように見るやろな。せやけど、わての正味一本のバラはな、あんたらより大切なんや。わてが水をやった花やで。大切に守ったった花やで。ついたてを立てたった花やで。毛虫をわやにしたった花やで(蝶になるための2、3匹はほっといてな)。愚痴やホラを聞いたった花やで。ぼちぼちへこんどるときでも気いかけたった花やで。わての嫁はんなんや」
 王子はキツネのところへ戻りました。
「ほな」王子は言いました。
「ほな」キツネは言いました。「さっきの秘密言うたろか。ごっつ簡単やで。心でしか見られへんのや。大切なもんは目に見えへんのや」
「大切なもんは目に見えへん」王子は忘れないように繰り返しました。
「ぼんが嫁はんを世話した時間はほんまに大切なんや」
「わてが嫁はんを世話した時間は・・・」王子は心に留めました。
「世間はこの真実を忘れとる」キツネは言いました。「せやけど、ぼんは忘れたらあかん。世話見たもんに責任がある。嫁はんに責任があるんや・・・」
「わてには責任がある・・・」王子は忘れないように繰り返しました。
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ヴェルサイユ宮殿

2007/06/03 22:44
 平成15年10月19日、ついに滞在最終日を迎えた。パリの見所は膨大で、細かく挙げれば切りがない。パリ観光を自負するにはあとひとつ忘れてならない場所がある。太陽王ルイ14世が享楽を極めたヴェルサイユ宮殿だ。アンヴァリッド駅でRER(高速郊外鉄道)に乗り換える。RERの車両は国鉄のものに比べて一回り大きく、2階建てのものもある。郊外の風景を眺めながら30分ほど南下すると、最寄りのヴェルサイユ・リヴ・ゴーシュ駅に到着した。駅周辺には閑静な町並みにみやげ物屋やレストランが軒を連ねる。並木道を5分ほど行くとルイ14世の騎馬像が迎えてくれる。その正面玄関の後ろに両翼400メートルの宮殿が横たわっていた。「有史以来、最も大きく、最も豪華な宮殿を」との号令の下、1661年から約50年にわたり築き上げられた。国内中の建築家、画家、彫刻家、造園家、工芸家、そして何万人もの労働者が借り出された。貴族を酒浸りにし、謀反を阻止しようと毎日のように宴会が行われたが、皮肉にもその豪奢な振舞いが革命の引き金を引く。完成から約100年の後、ルイ16世は王妃マリー・アントワネットと共に断頭台の露に消え、ブルボン王朝は滅亡する。宮殿入口には長蛇の列が連なり進む気配がない。宮殿内部には鏡の間と呼ばれる部屋があり、ここを見なければ訪れた価値も半減する。第一次世界大戦の終りを告げるヴェルサイユ条約が締結された歴史的にも価値のある部屋だ。しかしこの行列を待つ気にはならない。悔しいが宮殿へ入るのは諦めることにした。
 落胆は即座に驚愕へと変わる。入場料を払って宮殿の裏へ回ると、高台から見渡す視界の全てが庭園だった。815ヘクタール(甲子園球場約200個分)というから広いなんてものではない。ルイ14世が他国の王族を招いて散策したコースがガイドブックに載っていた。コンパクトにまとまったそのコースでさえ、私の足で2時間かかった。至る所に池や花壇が設けられ、植樹は丁寧に剪定され、あちこちに様々な彫刻品が置いてある。岩の岸壁に複数の彫刻が掛けられた「夏の泉」では、幼稚園児くらいのボーイスカウトが、芝生の上でハンカチ落しのようなゲームをしていた。脇には女性リーダーが2名付き添っていた。子供たちは濃紺の制服とベレー帽をまとい楽しげに駆けていた。やはり西洋人にはベレー帽が似合う。「ネプチューンの泉」では多くの水鳥が泳いでいた。水中の獲物を捕獲する為、一旦30cmほど跳躍してから勢いよく首を突っ込む運動を繰り返していた。太陽王はこんな長閑な光景を眺めていたのだろうか。
 再度パリ中心部へ戻り、本当にこの旅の最後となったがエッフェル塔へ向かった。言わずと知れた凱旋門と並ぶパリの代名詞だ。ここも観光客でごった返していた。塔は1900年に開催されたパリ博覧会のシンボルとして建造された。鉄骨で組まれた無骨な外観を、巨大なガラクタだと非難する人も多かったという。エッフェル塔が完成するまで世界で最も高い建造物はアメリカのワシントン記念塔で161メートルだった。320メートルのエッフェル塔は一気に倍も更新したことになる。技術者エッフェルの指揮のもと27ヶ月の早さで完成し、なんと一人の死者も出さなかった。東京タワーはエッフェル塔を模した為、形状も高さも酷似している。4つの足場それぞれが展望台への昇り口となっており、吹きさらしの格子階段を昇る方法と、斜めに昇降するエレベータを使う方法の2パターンある。どの入口も列が延びていたので諦めた。週末だったのでどこも余計に混雑していたのだろう。待つのが苦手な大阪人には少々つらい観光地だ。
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ブランデンブルク門

2007/05/28 17:59
 ベルリンにはDB、BB、UB、SBの4つの鉄道がある。DBは国有鉄道。BBはベルリン鉄道(市電)。UBは地下鉄。SBは路面電車。この他バスも走っているので、移動に困ることはない。平成15年10月10日、市電に乗り、ティーアガルテン東側に位置するフリードリヒシュトラーセ駅にて下車する。切符の買い方はDBと似ているが、行き先を指定するDBに対し、市電は距離によって区分けされたエリアを選択する。地下鉄も同じだ。
 中流河川シュプレー川の対岸には、船荷の積み下ろしに使われるのか、幾つものクレーンが林立していた。再度ぐずつき始めた曇天の下、寒風に吹かれる河畔はモノトーンがかって見えた。冬のヨーロッパ独特の色は寂寥感を煽る。ガラス張りの近代建築も石塁の歴史ある建造物も不思議と調和していた。空間が広く計画的に造成されているように感じた。政治の中枢、連邦議会議事堂が見えてきた。ガイドブックには常に見学希望者の行列ができると書いてあったが、見たところそれほど人はいない。幸運だと玄関に入ろうとすると、監視員に止められた。どうやら裏口のようだ。気を取り直し迂回すると、景気の良い行列が目に飛び込んできた。列の先頭を目で追うと正面玄関へ直結している。その長さ50メートルほどで、一向に進む気配はない。ガイドブックの危惧は的中した。見学は諦めることにした。玄関前は庭園になっており多くの家族連れや観光客で賑わっていた。黄色いパーカーを羽織った30人ほどの団体がプラカードを手にし、警察に見守られながらデモ行進していた。看板にはトウモロコシにハロウィーンのカボチャが怒ったような顔が描かれており、農薬廃絶か何かを訴えているようだ。
 近くにこの旅で最も訪れたかった場所のひとつがある。第2次世界大戦後、東西に分断された市の中心で、試練の時を眺め続けた歴史の証人、冷戦時代の象徴ブランデンブルク門だ。アテネ神殿の門を模したアーチは、18世紀末プロイセン国王の凱旋門として建造された。勝利の女神を乗せた4頭立ての馬車(カドリカ)のオブジェを冠した威容は、ドイツ古典主義建築の傑作といわれている。数年前まで門の前に壁が延び自由に通行できなかったが、今では誰もが憚りなく双方向に流れていた。思わず石柱に手を置いてみた。人々が流した血脈が感じられた。原生林の大木に手を置いているようだ。
 第2次世界大戦によって、ドイツ、日本、イタリアの同盟3ヶ国は憂き目を見た。いずれもファシズムによって暴走した国だ。勝利したのはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連を中心とした連合国。敗戦後ドイツ国土は4つに分割され、米英仏ソの4ヵ国によってそれぞれ占領された。首都ベルリンもケーキのように4ヶ国で分割統治された。各国はそれぞれの方針でドイツ再建を試みたが、アメリカ、イギリス、フランスの資本主義と、ソ連の社会主義によるイデオロギーの違いは日に日に明きらかとなった。やがてドイツ全土は資本主義国による西ドイツ(ドイツ連邦共和国)と社会主義国による東ドイツ(ドイツ民主共和国)に二分され1949年に独立する。東ドイツ領内にあったベルリン市も西と東に分断された。西ベルリンは東ドイツに囲まれていたことになる。東ドイツでは工場や会社の経営を自分達で決められず、人々は自由を制限されていた。労働現場への配慮はなく、生産量の無理な引き上げもあり、民衆からは不満の声が上がった。そこで自由な西側に亡命する者が続出した。亡命者は1年間に20万人にも上った。東ドイツ政府は、労働者が西ベルリンに逃げ込めないよう壁を作ることにした。西ベルリンを壁で包囲し流出を阻止する狙いだ。1961年8月13日の午前0時、壁作りは開始された。有刺鉄線を張り巡らせ、武装した兵士をあちこちに立てた。しかしそれでも亡命を防ぎ切ることができず、更にブロックを積み壁を強化した。こうしてベルリンの壁は築かれた。ベルリン市内だけでなく、東ドイツと西ドイツの境界にも同じような壁や金網などが敷かれた。崩壊したドイツ第三帝国とその首都は、両イデオロギーに揺れる冷戦の犠牲となった。ブランデンブルク門は数え切れない惨劇を見てきただろう。幻聴のように乾いた銃声が空を貫き、戦慄が走る。門はやがて冷戦が終わり、東西が再び統合される瞬間をじっと待っていたに違いない。
 当時、東ドイツと同じ社会主義国だったハンガリーでも不満が高まり、1989年5月オーストリアとの国境にあった鉄条網の撤去が開始された。これに亡命を希望する東ドイツ人が着眼した。数万人もの東ドイツ人がオーストリアへの越境目的でハンガリーに滞在した。国境近くの町では反政府組織による集会が開かれ、ある日ハンガリーから越境してオーストリアに入る「汎ヨーロッパ・ピクニック」が実行された。オーストリアは自由主義国で、入国すると簡単に西ドイツへ行くことができる。その噂が広まるや、出国を希望する東ドイツ人がハンガリーに殺到した。ハンガリー政府は越境行為を形式的に非難したが、逮捕などはせず黙認を続けた。東ドイツ人は、ベルリンの壁や東西ドイツ国境を命懸けで越える必要がなくなった。同時に東ドイツ政府はベルリンの壁を監視する意味を失った。国内でも10月頃からライプツィヒを中心に自由化を求めるデモが多発し、11月になると統制できない状態になった。11月9日夕刻、ついに東ドイツ政府は自由な出国を容認し、ベルリンの壁と東西ドイツ国境の開放を発表した。ベルリン市民は続々と検問所へ押しかけた。膨大な人数が殺到した為、検問所は通行人を捌ききれなくなった。こうして壁は崩壊した。この夜、数万人が西ベルリンに入ったといわれる。ブランデンブルク門には世界中から演奏家が集まり歴史的瞬間に花を添えた。その様子は世界中に中継された。ここに立つと民衆の歓呼が今にも聞こえてきそうだ。
 門の東側では、2006年にドイツで開催が予定されているFIFAワールドカップのパビリオンが仮設され、キャンペーンスタッフが熱心にチラシを配布していた。サッカーボールの形をした部屋の中に、親子連れやカップルが入っていった。西側の交差点は6月17日通りの起点となっており、車がとめどなく通行している。横断歩道を渡る時、アスファルト上を緩やかに蛇行するラインを発見した。近づくと壁の痕跡を示すプレートがはめ込まれていた。南方のポツダム広場に向かって2列のブロックが綿々と連なっている。ブロックは地面がアスファルトだろうが、コンクリートだろうが途切れることなく続いている。苦難の冷戦時代と輝かしい統一の瞬間を忘れまいとするドイツ人の気概が感じられた。ブロックの上を何事もなかったように自動車が往来していた。
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尾道

2007/04/26 22:41
 昨日、出張ついでに尾道へ寄りました。尾道行きは志賀直哉ゆかりの地とあって学生時代からの念願でした。仕事は早朝に始まり昼過ぎには終わるので、午後の時間を使うことができます。前夜3時間しか寝ておらず、体力が許せばと考えていましたが、尾道へ行く機会はそう発生しないこともあり、在来線で時折眠りながら向かいました。
 午後3時前、尾道ラーメンを胃に流し込み、港湾部のすぐ背面にある山手に向かいました。大阪から瀬戸内沿いに続く国道2号線は、ここでは普通の道と同じくらいの素朴な光景となっていましたが、規模の割りに交通量を多く感じました。見上げる丘は緑に包まれ、如何にも急勾配で、天辺に窮屈そうに建つ天守閣が見えました(これは商業施設なのでしょうか?)。駅の案内図に示された古寺めぐりコースを歩き、文学記念室から志賀直哉の寓居へ至る進路を想定していました。しかし実際に歩き始めると迷路のような路地に阻まれ、思うように目的地に近づくことができません。近づいているのかすら分かりません。坂に無理に建てられた住宅の間を縫うように延びる生活路は、もつれた糸のようです。場所によっては人がすれ違うのがやっとの幅員。コンクリートで舗装された傾斜は半ば階段状になっており、自転車の通行を不可能なものにしています。宅配屋がつらそうな顔で坂を昇っていました。テレビで見たことがあるとはいえ、このような地形に住む物珍しさを思わずにはおれません。路行く人に三度ほど尋ねました。住民の方は親切に説明して下さいますが、言う通りに進んでも、なかなか目的地にたどり着けないのです。飼い猫か野良猫か判然としませんが、猫があちこちにいます。途中、猫を3匹ほど連れて散歩するおじさんに会いました。リードでつながれてはいませんが、犬の散歩を猫に置き換えたような奇観です。汗だくになりながらまず文学記念室の門を叩きました。林芙美子ら当地ゆかりの文人の資料が展示されています。あまり関心のない作家ばかりだったので、縁側から瀬戸内海の景色をぼんやり眺めました。麓の街並みと海に浮かぶ島々は長閑の一言に尽きます。尾道は恐ろしく時間がゆっくりと流れています。景色を見て癒される感覚を久々に味わうことができました。
 再び路地に躍り出て、来た道を少し戻り、いよいよ目当ての旧宅に到着しました。私は学生時代、志賀直哉ばかり読んでいた時期があります。「作家は作品がすべて」と主張する文豪は、碑の建設や遺品の展示を嫌ったことから、それらにお目にかかるのは貴重です。父子の軋轢から逃れるように1912年11月から1年に満たない期間をここで過ごしました。その後全国を転々とする作家が人生最初に自炊生活をした地であり、ここで得た感性がその後の作品に大きな影響を及ぼします。三軒長屋の一番奥がその寓居で、六畳と三畳に土間が付いた質素な間取りです。ここで作家唯一の長編『暗夜行路』の構想が練られたといわれます。受付のおじさんと同作の終章についてささやかな議論が勃発しました。僭越ながら私は志賀らしくない現実離れした結末だと評しました。しかしおじさんはそれこそが志賀が到達した最上の世界だと称賛しました。帰宅後読み返してみました。確かに固有の作風から脱却し、天空に突き抜け屹立する清々しさを感じます。改めて多様な解釈を潜めた作品の力を認めました。『暗夜行路』に登場する尾道の描写を引用します。
 景色はいい処だった。寝ころんでいて色々な物が見えた。前の島に造船所がある。其処で朝からカーンカーンと金槌を響かせている。同じ島の左手の山の中腹に石切り場があって、松林の中で石切人足が絶えず唄を歌いながら石を切り出している。その声は市の遥か高い処を通って直接彼のいる処に聴こえて来た。
 夕方、伸び伸びした心持で、狭い濡縁へ腰かけていると、下の方の商家の屋根の物干しで、沈みかけた太陽の方を向いて子供が棍棒を振っているのが小さく見える。その上を白い鳩が五六羽忙しそうに飛び回っている。そして陽を受けた羽が桃色にキラキラと光る。
 六時になると上の千光寺で刻の鐘をつく。ごーんとなると直ぐごーんと反響が一つ、又一つ、又一つ、それが遠くから帰って来る。その頃から、昼間は向い島の山と山との間に一寸顔を見せている百貫島の燈台が光り出す。それはピカリと光って又消える。造船所の銅を溶かしたような火が水に映りだす。
 十時になると多度津通いの連絡線が汽笛をならしながら帰って来る。舳の赤と緑の灯り、甲板の黄色く見える電燈、それらを美しい縄でも振るように水に映しながら進んで来る。もう市からは何の騒がしい声も聞こえなくなって、船頭達のする高話の声が手に取るように彼の処まで聞こえて来る。
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ルーブル美術館

2007/04/16 00:09
 平成15年10月18日午前10時、ルーブル美術館に到着する。城砦のような外観に本当に美術館かと何度も確認した。門を潜ると広大な中庭が広がっている。ガラス張りのピラミッドに行列が延びており入口だと判別できた。列は既に30メートルほどに達していた。金属探知機による手荷物検査が行われ、エスカレータで地階に下りる。ロビーは商戦で賑わうデパートのように混雑していた。中央にはインフォメーションセンタがあり、数ヶ国の言語に翻訳されたパンフレットが陳列されている。ロビーだけでもマンモス振りが伺える。館内には古代オリエント、古代エジプト、古代ギリシャ・ローマ、彫刻、絵画、デッサン、美術工芸の7部門にわたる約30万点ものコレクションが展示されている。地域や分野別にシュリー、ドノン、リシュリューと呼ばれる三つのセクションに分かれており、どこから観賞しても良い。パンフレットを見る限り全て回れそうにないが、親切にも重要な見所がピックアップされていた。
 まずミロのビーナスへ向かう。当館の至宝は、ここに来るまで世界中で引っ張りだこだったようだ。深く聡明な表情、ふくよかなラインは随一といわれる。1820年メロス(ミロ)島にてギリシア人農夫が2個の断片を発見。更に出土された計6個の断片をパズルのように組み合わせ像を復元させた。その後像は所有者をリヴィエール侯、ルイ十八世と変え、ルーブル美術館に落ち着く。1964年には来日もしており、数百万人が殺到したという。両腕が欠落しているが、腕がない為返ってプロポーションが美しく見えるともいわれており、最初から存在しないとの説もある。通路の真ん中で四方を鉄柵に囲まれて立っており、あらゆる方向から眺めることができる。これを倒すと世界中の新聞に載るだろうと下らないことを考えながら、類まれな造形美を楽しんだ。次に「サモトラケのニケ」を見た。舳先に立つ天女には首がついていない。ギリシアのサモトラケ島で出土され、ニケとは勝利を意味する。ロードス島での戦勝を祝い作られたといわれる。頭部は後に破壊されたか流されてしまったのだろう。しかしこれも首がない為、返って心に迫るものがある。
 フランス絵画の大作のフロアは圧巻だ。縦横数メートルもある巨大な絵画が惜しげもなく並べ掛けられていた。ダヴィッド作「ナポレオンの戴冠」は1804年にナポレオンがバチカン法王を呼び、自らの手で自らの頭に戴冠する様を描いたもの。ナポレオンは自らの意思とはいえ、自らに戴冠する不恰好な記録を残したくなかった。そこでダヴィッドはナポレオンの前に皇后をひざまずかせ、あたかも皇后に冠を授けているようにも見て取れるようにした。ナポレオンは古典派美術を好みダヴィッドを宮廷首席画家に抜擢するが、失脚するとダヴィッドも国外追放となったそうだ。ヴェロネーゼの「カナの婚礼」も有名な大作。披露宴の風景を描いたもので、宴席の中央には後光の差したイエスが座っている。カナという街の婚礼で新郎が振舞うはずの酒が準備されていなかった。酒がないのは参列者に対してとても失礼なことだった。偶然立ち寄ったイエスが普通の水を葡萄酒に変える奇跡を起こし、新郎は恥をかかずに済んだという。ヨハネ福音書によるイエスが初めて奇跡を起こしたとされる場面だ。そんな魔法が使えたら宴会のヒーローに違いない。ロマン派の巨匠ドラクロアの「民衆を導く自由の女神」もお馴染みの名画。1830年に勃発した7月革命の成功を祝って描かれた。市街戦の修羅場に自由の象徴とされる女神を登場させ民衆を導く様は、封建制からの脱却を宣言したものだ。ロマン主義絵画は、擬音的、動的な表現が特徴で、個性や自由の概念が欠かせないモチーフとなっている。他多くの著名な大作は溜息が漏れる充実振り。野球で言えば4番打者を集めたどこかのチームのようだ。どの作品も超一級の主張をしており、価値観がパニックを起こしそうになる。
 イタリア絵画のコーナーでは、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」に出会うことができた。館内で明らかに黒山の人だかりができているのはここだけ。人垣をかき分け前へ進むと、絵が意外に小さいことに驚く。500年の年月が経過しているからか、随分暗いトーンになっていた。イタリア・ルネッサンス期の巨匠ダ・ヴィンチは、絵画や彫刻だけでなく、建築その他広範の科学に才能を発揮した空前の天才だ。数々の大作を押しのけて、こんな小さな絵が一番人気なのだから、そのグローバルな人気の程が伺い知れる。生涯独身だった彼は「モナ・リザ」を片時も手離さなかったというエピソードもある。
 セーヌ河畔を西へ向かうとオルセー美術館がある。この日も気候がよく、少し歩くと上着を脱ぎたくなる。沿岸には観光客や地元民が多く行き交っていた。先日阪神タイガースが優勝した折、セーヌ河に飛び込んだファンがいたそうだ。道頓堀より広く危険だが、水質はこちらの方が良さそうだ。オルセー美術館はオルレアン鉄道の終着駅を改築したもので、鉄の梁が名残を留めている。内部は吹き抜けで、梁から自然光がさんさんと差し込んでいた。古典派、バルビゾン派、印象派を中心とした作品が、四方の壁に沿った各部屋に展示されていた。学生の頃、神戸市立博物館で開催されたオルセー美術館展にて、初めてルノアールの作品と出会った。中でも「ピアノを弾く少女たち」はルノアール好きになるきっかけとなった名画だ。その絵に再会できたことに奇縁を感じた。チケットにも刷られているゴッホの自画像には釘付けにされた。独特の渦巻を背景に、絵の主は凍てつく視線でこちらを睥睨している。画家は37歳で短銃自殺した。錯乱した感覚がこのような鬼気を描かせるのかと恐ろしく思った。
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凱旋門

2007/03/31 11:58
 ワイマール午前6時半、ホテルのレストラン開店同時に食事を済ませ、7時にプラットホームへ上がる。外は真っ暗で、東の空が微かに白み始めていた。既に通勤や通学の客が列車を待っていた。平成15年10月17日、今日はいよいよフランスに入国する。フランス文学を専攻するも一度も訪れたことがなく、大きな念願となっていた。一旦旅の起点フランクフルトへ戻り、乗り換えてパリ・エスト駅へ向かう。10時間に及ぶ鉄道の旅だ。ディーゼルに牽引された貫禄ある客車が入ってきた。予約した指定席に座る。青い空気に包まれ走る車窓からは、エアフルト駅前の大きなマンションやバッハ生誕の地アイゼナハの長閑な町並みが見えた。朝霧が濃く、日の出後も視界は回復しない。風景画にミルクをこぼしたような、薄緑色から地平の白い闇へ消えていく様が幻想的だ。銀河鉄道さながらの情景に幻惑され、後半はほとんど眠ってしまった。気づくと快晴の空に浮かぶフランクフルトの高層ビルディングが目に飛び込んできた。フランクフルト中央駅もライプツィヒ同様、頭端式の巨大な駅舎だ。ヨーロッパでは頭端式が多く、進行方向を向いて座っていても、いつの間にか逆向きになっていることがしばしば。1時間ほどの乗り継ぎ時間を構内で過ごした。空の玄関口だけあって多くの人が行き交っている。売店に入ると店員と客が口論を開始した。店の前に転がっていた空き缶の処理を巡り激しい剣幕で罵り合い、目の前を空き缶が飛び交った。危うく流れ空き缶に当たりそうになった。
 先ほどの列車と同じタイプの特急パリ・エスト行きが入線した。車内は旅情をそそる古い造りだが、座席は長距離移動に配慮した大きく心地よいもの。列車はフランス国境に向かい郊外を突き進む。ドイツ南西のザールブリュッケン中央駅を出発すると、車内ではパスポートの検閲が始まった。フランス領はすぐそこに迫っているようだ。実際に境界線が引かれているわけではないのでわからない。やがて次の駅に到着した。Forbach駅に「sortie」との表示があった。出口を意味するフランス語だ。フランス語の勉強を始めて10年、フランス領に達した感慨にひとつの高峰を制した達成感が包んだ。フランスに入ると急に景色が明るくなったように感じるのは気のせいだろうか。牧歌的な明るさだ。草叢を縫うように細く流れる小川は清冽で、印象派絵画のような温もりを宿している。メス駅で多くの人が乗り込んできた。人々が口にする言語はフランス語だ。パリに近づく様が感じられた。
 フランクフルトを出て5時間半が経過した午後5時、列車は終着パリ・エスト駅に到着した。構内はひどく混雑しており、新宿駅や渋谷駅を思い出した。案内板の表示がフランス語なのでわかりやすい。パリには国鉄、メトロ(地下鉄)、RER(高速郊外鉄道)の3つの鉄道がある。国鉄はどの方面に向かうかによって玄関口が異なり、パリ・エスト、パリ・ノール、サン・ラザール、リヨン、モンパルナスの5駅に分かれている。ホテルはサン・ラザール駅近くにあり、そこまでメトロで移動する。ガイドブックにはスリについて注意書きがあった。投稿された情報によると、子供がカバンに手を突っ込んでくるらしい。ドキドキしながら地下へ降りる。自動券売機に触れると、見たことのない単語が表示され、一旦外して辞書を確認した。自動改札機のゲートは顔の高さまであり、切符を入れると競馬の出走時のようにパカッと両側に開く。ロンドンのものに似ている。平然を装いながら乗車した。よほど深刻なのか「スリにご注意ください」とのアナウンスが日本語でも流れ緊張感が増す。そばに関西弁でかしましく話すおばちゃん4人組が乗車していたが、無防備に話し込んでいたので気になった。ぴりぴりしながら無事サン・ラザール駅に到着した。地下通路は狭く圧迫感があり、火災が発生すると混乱を起こしそうだ。配管がむき出しになっているところもあり、日本の古い地下鉄の構内と似ている。地上に出ると界隈もまた窮屈でごみごみしていた。いかにドイツが時間的にも空間的にもゆったりしているか、早速懐かしく思い出された。
 日没後もドイツより緯度が低く温暖湿潤な為それほど寒くない。凱旋門まで歩くことにした。不夜城の町並みから通行人が減る気配はない。せっかちなのだろう。信号はあってないようなもので赤でも隙があれば次々に道路を横断していた。大阪人顔負けだ。シャン・ゼリゼの数本北の道路をしばらく進むと、ライトアップで金色に輝く凱旋門が視界に入った。午後7時、シャルル・ド・ゴール・エトワールと呼ばれる放射状に延びる道路の中心に、世界一有名なモニュメントはあった。短期間に巨大建造物を見てきたのでそれほど迫力を感じないが、高さ50メートル幅45メートルは圧巻だ。1806年、ナポレオン・ボナパルトはフランス軍の栄光を称え「世界最大の門」の建造を宣言した。ローマのティトゥス帝の凱旋門がモチーフになっている。宣言から1836年にかけて建設作業が続いたが、政治の変遷により途中幾度も計画が見直された。結局ナポレオンは門を潜ることなくセント・ヘレナ島へ流され、1840年遺骸となって帰還する。以来ヴィクトル・ユーゴーの国葬、第一次世界大戦の戦勝パレード、第二次世界大戦のパリ開放パレードなど、フランスの国民的イベントが行われる場として愛されている。地下通路の途中に凱旋門への入口があり、入場料を7ユーロもとられた。階段を昇るとアーチ部の真下に出る。正面からの映像は見慣れているが、真下からの凱旋門も格別だ。巨大な化け物に押しつぶされそうな威圧感を受ける。支柱内に展望台へ続く階段がある。長い階段を昇ると中階層がギャラリーになっていた。壁には栄光と血に塗られた歴史が、模型やパネルによって解説されていた。逸る気持ちを抑え展望台に昇ると、芸術の都の夜景が360度広がっていた。凱旋門を中心に道路が放射状に延びており、エトワール(星)広場の由来がわかる。それにしても日本人が多い。友達と観光に来る女子大生が多く、あちこちで日本語が飛び交っていた。1836年、ルイ・フィリップ一世の王政下に完成した凱旋門は革命期、王政期の軍人が祀られている。1921年には、普仏戦争で抗戦を主張した政治家ガンベッタの心臓と、第一次世界大戦の多くの無名戦士が門の下に埋葬された。1923年11月11日に灯された慰霊の火が今なお燃え続けている。1870年から1918年までドイツ領だったアルザスとロレーヌ地方の返還記念を始め、1940年のシャルル・ド・ゴール将軍の対独レジスタンス宣言、その他第二次世界大戦などフランスが関与した戦争を記念するプレートがいくつもあった。華やかなイメージばかりが先行するが、真の姿はフランス人戦没者の巨大な慰霊塔だ。
 帰りはシャン・ゼリゼを闊歩する。世界随一のメインストリートの風格、賑わいは銀座に似て異国情緒を感じない。コスモポリタンが集い、遍く人種に居心地が良い空間となっているのだろう。パリは粋だ。歴史的モダンだ。古くから芸術家がパリを目指す理由がなんとなくわかる。
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吉野ヶ里遺跡

2007/02/25 22:32
 屋久島からの帰路、吉野ヶ里遺跡へ寄りました。ご覧のとおりの歴史好きですが、古代遺跡に格別の願望があるわけではありません。未踏県に立ち入ることが目的です。このたび兼ねて未踏だった鹿児島県、佐賀県の2県を旅しました。今夏、計画している秋田県にて全都道府県制覇を達成の見込みです。無論全県を旅したから何が起こるわけでもありません。リフレッシュというありきたりな(しかし最も重要かもしれない)要因を挙げるのも適切ではありません。ただ、できる限り多くの土地を踏みたい思いを測るひとつの指標です。
 鳥栖からJR長崎線に乗り換え、吉野ヶ里公園駅を下車し遺跡までの約1kmを歩きました。周囲は田畑が山にぶつかるまで延びています。某芸人さんのヒット曲に内心微笑み、屋久島帰りの疲労もあってぼんやり歩きました。今年初めての春の陽気の下、畦道では春の七草が新緑を露にし、多分に空気を含んだ土塊は今や目覚めようとしています。私は幼少の頃、夏休みになると母親の実家の大根畑を手伝うのが習慣でした。幼少期に染み付いた土の香りは鼻底に留まり消えるものではありません。各地を旅して、その土地固有の土の香りがあることに気づきます。史跡やモニュメントは確かに視覚的なインパクトを与えます。しかし土の香りに勝る印象とは如何なるものでしょう。「風土」という言葉があります。気候や地形がその土地の文化に影響を及ぼすといわれます。土壌は植物だけでなく、文学や芸術、思想を育てます。鹿児島を訪れると、西郷隆盛や大山巌ら怪傑が巣立った理由がわかります。幼少期に土の香りを覚えた私は、仕事やプライベートで全国を旅し、意識の根底でそれを求めていたのではないでしょうか。一言に土といいますが、屋久島のように原生林に堆積する土と、区画整備され長く農耕が営まれている土では異なります。私はそのどちらにも良さを感じます。稲田には稲田の良さがあります。そこに人の生活がにじみ出ています。人と土が交じり合い放つ香には、そこはかとない安堵が漂っています。一幅の絵画を観覧する如く、刹那多様な息吹を感じます。
 全国の旅は大詰めを迎えました。筑紫平野は旅の理由を教えてくれました。遺跡は田園地帯に溶け込んだ広大な公園です。気候がよく、復元された高床式の階段を昇降するうちに汗ばみました。もはや邪馬台国がどこにあったかはどちらでもよく、ここに巫女がご宣託を告げる大群落があり、多くの古代人が往来した名残が感慨を喚起します。最近、司馬遼太郎の作品に触れました。弥生時代に入るまで、日本人は木製農具の開墾能力に限界があったことから、敢えて他人の土地を奪おうとしませんでした。弥生時代に入り、鉄を利用し始め、農耕技術が向上しました。広い土地で多くの収穫が得られるようになりました。そこで他人の土地を奪いたいとの欲が発生しました。思うにそれから人類は領土争いの連続です。民族紛争も土地の問題であることに気づきます。
 土が語りたいことは一言にも満たないかもしれません。しかしそこを踏んで得る感覚は饒舌が多言を弄すよりも充足して伝わるに違いないと思うのです。
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縄文杉

2007/02/13 19:50
 連休屋久島の縄文杉に会ってきました。本来荒川登山口からの挑戦が一般的ですが、欲張って白谷雲水峡から登りました。本格的なトレッキングを楽しむのは一体何年振りでしょうか。
 10日、新幹線つばめの快走に身を委ね、到着した鹿児島は想像以上に都会でした。西郷隆盛の人柄がそのまま街に浸透しているような懐深い土壌を感じました。見所が多いため、鹿児島中央駅から港まで歩きました。さすが薩摩です。維新期、日清日露戦争期に活躍した偉人ゆかりの地が点在しています。なお私は東郷元帥と誕生日が同じです。誕生の地の石碑は学校の外周に、敷地に食い込むように立っていました。黒い石碑はわずか1mほどで、日陰に忽然と佇立する姿は大提督のイメージから少し遠いように思いました。
 高速船トッピーは時速80kmで洋上を南下します。懸念された船酔いは若干の倦怠程度に留めおくことができました。幽かに噴煙を上げる泰然自若とした桜島は抜群の存在感で視界を覆います。1時間かけて大隈半島を抜け、途中種子島の西之表港に寄港、夕方6時頃に屋久島の安房港に到着しました。暮れの港は寂しく風の暖かさをそれほど感じませんでした。
 11日、宮之浦でレンタカーを借り、白谷雲水峡へ向かいました。前日、島の人はどこで買い物をしているのだろうと訝りましたが、宮之浦方面にはスーパーマーケットがちらほら見えました。宮之浦から登山道入口に至る白谷林道を30分ほどかけて走ります。白谷雲水峡と縄文杉を一日で回るのは健脚でなければ難しいです。道中の限られた情報と実際踏む道の険しさ、天候、体力を測るには経験が必要です。もちろん復路も計算に入れておかねばなりません。私は所要8時間を予測しましたが、入口の管理人さんは10時間を見積もり、現在9時なので日没までの帰還は不可能と言われました。適宜判断しながら進むことにしました。
 登山道に入ると、白谷川の急流の美しさに目を奪われます。さつき吊橋を渡り、楠川歩道に出るといよいよ右も左も大木です。切株や倒木の上に種子が落ち、接ぎ木のように伸びているものもありました。この形に至るまでどれほどの年月を費やしたのか、自然のエネルギーに圧倒されます。茂みに紛れたヤクシカに何度かまみえました。人に慣れているのか、警戒してはいるものの、逃げ去ろうとしません。呑気に草を食み、行く手をふさいで退かない鹿もいました。いやいやここの主は彼らです。お邪魔しているのはこちらです。映画のモチーフとなった「もののけ姫の森」は苔生した妖精タッチな空間でした。ふかふかした肥沃な土壌、たくましい大木の吐息、土の下には多くの生命が春を待っているに違いありません。険しい辻峠を下ると楠川分岐が見えてきました。楠川分岐は楠川歩道と荒川歩道が交錯する地点です。ここから大株歩道分岐までのおよそ5km、トロッコの軌道をひたすら歩きます。荒川登山口からの観光客は多く、老若男女の隔たりなく行き交っていました。平坦なトロッコ軌道にて、辻峠で疲労した体力を歩きながら回復します。平素気紛れな屋久島の天候は悪化する兆候を見せず、安心して歩けといわんばかりです。 
 大株歩道分岐に到着したのは11時半頃でした。立て看板には10時以降は(復路を考えると下山に間に合わないから)立ち入り禁止と書かれていましたが、ここまでの好ペースから果敢に挑戦しました。階段が多く、ひたすら急勾配が続きます。階段は同じ筋肉を継続して使うため、足が重くなります。無造作な岩肌の方が歩きやすいときもあります。すれ違う人から激励を受け、ウィルソン株に到達しました。大きな切株は根元が空洞で潜れるようになっています。天井部は抜けており光が差し込みます。足元には湧き水が流れ、祠が据えられていました。1914年調査に訪れた植物学者ウィルソン博士に因んで名づけられたそうです。豊臣秀吉の命で伐られたとの説も残されています。
 更に上へ向かう山道は長時間経過した粒の粗い雪を残し、途中沢を挟みながら、いつ果てるともなく続きます。すれ違う人の情報だけが、距離が縮まっている手ごたえでした。13時前、頭上に展望デッキが見えてきました。高鳴る胸を抑え、呼吸も整わぬまま壇上に上がると、目の前には異質な存在感を放つ縄文杉がそびえていました。デッキと縄文杉の距離は10メートルくらいでしょうか。第一印象は疲労からか、感動よりも到達できた安堵の方が大きかったかもしれません。しばらく眺めていると実感が湧いてきます。幹周り16mは現存する杉として最大。その名は幹の樹皮が縄模様に見えることに由来しているそうです。樹齢は7200年とされていますが、諸説あるようです。学術的データはともかく、他の杉とは風格がまるで違います。濁流のようにうねる幹は天を持ち上げんと力強い枝葉を伸ばし、デッキからはその高さを窺うことはできません。先にここを訪れた友人から弱っているとの話を聞きましたが、私はそのように感じませんでした。老いてなお猛々しい度量を発する人格者。この樹には時間など関係ないのかもしれません。老いて見えるのは人間の先入観に過ぎないと思うくらいです。
 復路を考慮すると滞在時間はわずかです。下りは足に衝撃を受けやすく、親指の爪と両膝に負担を感じました。トロッコ軌道で歩きながら足を休め、楠川分岐から辻峠を戻りました。スタート地点の白谷雲水峡に帰ったのは午後5時。何とか日没に間に合いました。天候が崩れるとどうなっていたでしょう。予定どおり8時間の往復でしたが、日頃の運動不足が身に染みました。
 縄文杉と屋久島の自然が教えてくれたことは「自然を大切にしなければならない」という人間視線の生ぬるいメッセージではありません。人間がいなくなれば良い?我々はともに宇宙の創造物であり、淘汰し淘汰されひとつしかない地球上に共存しています。時に自然は大きな牙をむき出しにします。樹木が枝を伸ばし根を張るように、人間が住みよい社会を追求するのも当然の摂理です。大切にするという言葉はすばらしい。しかし大自然を前にしてのこの言葉は、些か客観的な意味合いが強いように思います。例えば人を愛するのに理屈がいるでしょうか。我々はもっと自然の脅威、恩恵を実感すべきだと思うのです。都市の巨大化が進み、多くの人間がそういったことを感じる機会が少なくなりました。エコが叫ばれるほど、人間が自然から遠ざかってしまったことがわかります。大自然に身を置き感じること、そこには理屈はなく、ただ畏敬の念のみ、有無を言わさぬ厳粛な世界が広がるのみ。大切にするとかしないとか、そういうことを超越した真理が存在しています。
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ビスマルク

2007/01/22 22:49
 平成15年10月9日、ボン中央駅を出発した電車に揺られること4時間半。時計の針は午後3時を回っていた。ICEは速度を落としベルリンの中心部へ進む。ツォー駅はこの都市の最主要駅で、「Zoo」のドイツ語読みとしてこのように発音される。もちろん近くに動物園がある。ドイツ連邦共和国の首都は随所に歴史的建造物を抱く文化都市だ。人口350万人は横浜市とほぼ同じだが、ベルリンには空間の広さを感じる。
 駅西側のホテルにチェックイン後、早速散策に出かけた。ベルリンの信号は変わるのが早い。すぐ赤に変わるので急いで渡らなければならない。逆にぎりぎりの場合は次を待つ気にもなる。高架をくぐり東側に出ると目に飛び込むのがカイザー・ヴィルヘルム記念教会だ。1888年没したヴィルヘルム1世を記念して19世紀末に建てられた。この建造物の異彩は遠目に見ても明瞭で、その容姿は大砲でぶち抜かれたような半壊状態だ。1943年の空襲で爆撃を受けたらしい。厚みも高さもあるどっしりした教会だが、上階は風雨にさらされた廃屋となっている。広島の原爆ドームのような凄みがある。1階には記念品や資料が展示されており、天井には王侯貴族の絵が施されていた。どの壁画も損傷著しく、特に両端の金箔をふんだんに使用した王の絵は剥落が激しかった。ビルディングに囲まれた駅前に、不釣合いにそびえる教会は戦災を忘れまいとするメッセージを発して余りある。
 3kmほど離れていたが、ジーゲスゾイレ(戦勝記念塔)へ向かうことにした。中心部から少し離れるとすっかり閑静になった。ジーゲスゾイレは大統領宮殿を擁するティーアガルテンという日本の皇居のような広大な庭園の中心にある。景色は次第に森へと変わり、原生林に見紛う野性味溢れる木々が鬱蒼と林立していた。ジョギングする人も見られた。やがて大きな塔が見えてきた。ベルリンの東西を結ぶ6月17日通りの中央に位置し、塔を迂回するように道路が環状になっている。南北からも道路が集中する交差点の交通量は膨大で、信号が変わる毎に車が滝のように流れていた。対面の塔へ行きたいが横断歩道がどこにもない。しばらく探していると近くに地下道の入口があった。通路は最低限の明かりしか灯されておらず、薄暮の通行はかなり怖い。見ず知らずの土地に初めて危険を感じた。明日出直そうとも考えたが、そんなことで怯むのも恥ずかしい。意を決し何度も振り返りながら地下道を通過した。そびえる地上67メートルのジーゲスゾイレの頭上には巨大なヴィクトリア神が金色に輝いている。この派手な戦勝記念碑は、ヴィルヘルム1世とビスマルクに率いられたプロイセンがデンマーク、オーストリア、フランスを破った記念として建てられた。ドイツ国民が建国に至った勝利をいかに誇りに思っているかを思い知らされた。内部の285段の螺旋階段を昇ると展望台がある。ティーアガルテンはもちろん都市部を360度眺望できる。6月17日通りが東西の大動脈として塔を貫いているのがわかる。この一風変わった通りの名前は、戦前シャルロッテンブルガー通りと呼ばれていた。1953年6月17日、東ドイツで起きた市民運動をソ連軍が武力で抑圧しようとし多くの犠牲者を出した。その事件に抗議の意味を込めて、以来6月17日通りと改名された。頂上のヴィクトリア神は沈む夕日に敢然と対峙し、ベルリンの明日を見守っているようだ。
 再びドキドキしながら地下道を戻る。塔の北辺に何やらブロンズ像を発見したので行ってみた。頭上の虚空一点を凝然と睨む正体はドイツ建国の父ビスマルクだった。ビスマルクを守るように神話の神々が四方を囲む。地球を雄雄しく担ぐ筋骨隆々のタイタンを眺めていると、大地の深奥から凄まじい怒涛が聞こえてきそうだ。一体でも充分な芸術性を備える像がビスマルク含めて5体も集合し、ひとつのモニュメントを形成していた。これほど偉大なブロンズ像を見たことがない。962年オットー1世が戴冠して始まった神聖ローマ帝国は、いくつものラント(領邦)に分割統治されていた。神聖ローマ帝国は一人の皇帝を冠した連邦国だが、領邦が力を持つにつれ皇帝は次第に飾りと化した。19世紀後半からある領邦が頭角を顕す。プロイセン王国だ。1861年ヴィルヘルム1世が王に即位すると、翌年にビスマルクが登用され、富国強兵政策が執られる。ビスマルクは国内の領邦の併合を進める傍ら、当時未発達だった鉄道と電信を積極的に取り入れ、普仏普墺戦争に次々勝利し周辺諸国の介入を封じ込めていった。1871年ついにドイツ帝国が誕生した。同時に900年以上続いた神聖ローマ帝国は消滅した。ドイツ帝国の初代宰相はもちろんビスマルク。彼がいかにドイツ人の精神的根幹を担っているか窺い知れる。
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吉田松陰

2007/01/05 22:23
 三十路に入り1年が経過しました。月日が加速している気配を禁じえません。幕末の志士吉田松陰は、安政6年(1859年11月21日)29歳の若さで小伝馬の獄中に没しました。大老井伊直弼が攘夷論者を封殺した安政の大獄です。獄中で門弟に宛てた遺書『留魂録』は文学的にも価値の高い名著といわれています。儒者でもあったその思想に共感します。第八章に死生観を述べた名言があります。
(前略)何となれば人寿は定まりなし、禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり。二十は自ら二十の四時あり。三十は自ら三十の四時あり。五十、百は自ら五十、百の四時あり。

 松蔭は自らの人生も結実している段階だと悟り、処刑を受け入れなければならない己の心に平静を努めています。松蔭が主宰した松下村塾の門弟には高杉晋作、久坂玄瑞、山形有朋、伊藤博文らがいます。後に維新の三傑と称される木戸孝允(桂小五郎)は明倫館での教え子。松陰の果実がやがて門弟たちの手で維新へと昇華した事実は詳述するまでもないでしょう。同じく獄中から高杉晋作へ宛てた書簡から、志の重要性を説いている箇所を紹介します。
死は好むべきにも非ず、亦悪むべきにもあらず。道尽き心安んずる、便ち是死所。世に身生きて心死する者あり、見亡びて魂存する者あり。心死すれば生くるも益なし。魂存すれば亡ぶるも損なきなり。死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。


 長州藩の藩都萩は、関ヶ原の戦い西軍の総大将、毛利輝元が指月山麓に築城し、約260年間、36万石の城下町として栄えました。市内中心部には風情ある武家屋敷が残されています。敗軍の大名が築いた街が、倒幕の震源地となったことに歴史の皮肉と妙味を噛み締めざるを得ません。このような本州の最果てから、京都や江戸を縦横無尽に駆け回った志士が巣立った奇跡を感じました。
 東側の松陰神社へ向かい、松陰に肖らんと参詣を済ませました。本殿にはご神体として硯と書が祀られているそうです。境内はピークを過ぎたものの、初詣に訪れる内外の客や露店で賑わっていました。参道入口には松陰が父杉百合之助らに宛てた遺書から辞世が刻まれています。「親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん」。江戸で処刑が決まった知らせを、親がどのような気持ちで受け止めるだろうと気遣う様子が表れています。神社から数百メートル山手に上がると一族の墓所があります。ここに松陰の遺髪が埋葬されています(亡骸は東京都世田谷区の松陰神社)。墓石には遺言どおり「松陰二十一回猛士」と記されていました。二十一回とは「吉田」の文字をばらして読んだもので、生涯二十一回の猛を発する(世間を動かす大きな言動を起こす)との意思が込められています。
 松陰が起こした密航未遂や暗殺未遂はテロ活動です。終生訴え続けた尊皇攘夷も、門弟たちによって開国の結末を迎えるなど、すべてが望む通りに変遷したわけではありません(松陰死後の激動する情勢により、門弟たちはもはや列強との交易が避けられないことに気付き始めます)。しかし新時代へ遷移する起爆剤となった固い信念は、現代の日本人が見失った大切な何かを呼び覚ましてくれるようです。
 墓所に隣接する誕生地跡からは市内が一望できます。享年29歳。今の日本をどのように眺めるだろうと想像してみました。
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ベートーヴェンの生家

2006/12/09 15:33
 平成15年10月7日、昨夜8時に就寝したが時差ボケで体が重い。7時に朝食をとるもホテルを出たのは10時頃だった。外は生憎の俄か雨。ホテル前の道を駅方面へと戻る。湿った落葉が散在する住宅地の街路から若干ルートを変えて並木道を抜けた。雨は情緒があるのでそれほど嫌ではない。駅北側は飲食店やブティックが軒を連ねる繁華街で、昨日同様多くの人が往来していた。高層建築はなく、教会など古い建物と調和の取れた町並みだ。
 市で最も賑やかなミュンスター通りを抜けマルクト広場に出る。ベートーヴェンのブロンズ像はさすが生誕地を思わせる雄渾なもの。この像は作曲家フランツ・リストが楽聖の栄誉を称える為に私財を投げ打って建てたものだ。ザルツブルクのモーツァルト広場にあるモーツァルト像のように威厳を備えたデザインとなっていた。ただでさえ益荒男ぶりのベートーヴェンはさほど違和感がない。ウィーンのコンツェルトハウス近くにある広場にも青銅のベートーヴェン像があるのを思い出した。北上すると路肩に忽然とベートーヴェンの生家がある。周囲の住居に溶け込んでおりわかりづらい。対面の小売店の壁に、向かいの建物を指した矢印がペイントされていた。当の生家は閉じた門扉の上に小さな石版がはめ込んであるだけ。人だかりは元より立ち止まる人もいない。ウィーンにあるベートーヴェンの家も識別しづらかった。真偽を疑いながら恐る恐る扉を押すと、中には意外にもたくさんの観光客がいた。
 家は木造3階建てになっており、構造は周囲のアパートと同じ。受付のおばさんにドイツ語で荷物を預けるよう言われるが理解できずにいると、おばさんはフランス語で話し始めた。東洋人の私にフランス語を持ちかける発想が奇抜だ。一旦中庭に出て通路を進む。四方を住居に囲まれた狭い中庭には、ベートーヴェンの胸像が置かれていた。再び建物内に入り、床を軋ませ部屋を見て回った。有名な肖像画「荘厳ミサ曲を作曲するベートーヴェン」(1820年)にお目にかかることができた。日本で目にする楽聖の顔のイメージはほとんどこれだ。当時の楽器や自筆譜、手紙など膨大な資料も展示されていた。2階にいた監視のおばさんに肖像画について尋ねてみた。英語力が未熟な為かなり曖昧な会話になった。「この肖像画は本物ですか?」と聞いているのに、「ベートーヴェンは22歳でウィーンへ行ったのよ」と答えが返ってきた。私の英語力はこの程度だ。逆にそれが楽しくしばし談笑を楽しんだ。ベートーヴェンの手紙の字はとても荒々しく、ネイティブでも読解は厳しいだろう。楽譜の筆致も爆発していた。音符がどの音階を指しているかわからない。伝記通りのがさつな性格が伺えた。
 3階の角部屋は楽聖が生まれた部屋として公開されている。ロープが張られ中には入られない。四畳半ほどの小さな部屋だ。屋根裏部屋のようなもので、天井も全体的に低く、屋根の傾斜に合わせて一方が傾いでいた。家具は置かれておらず、ただ一体大理石でてきた楽聖の胸像が中央に据えられていた。1770年12月17日、最も偉大な音楽家のひとりルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェンはこの部屋で生まれた。白一色の室内には窓から取り込まれた光が染み込んでいた。部屋の中には何もない。ただ輝きに満ちた空気が支配していた。
 ボンでは9月末から10月中旬のこの時期、ベートーヴェンフェスティバルが開催される。国内外からアーティストが集まり、期間中市内各地で公演が行われる。メイン会場のベートーヴェンホールはやや北のはずれにあった。タイミングが悪いことに私の滞在期間に公演はなかった。ポスターを見ると錚錚たる顔ぶれだ。3日にはピアニストのマリア・ジョアン・ピリス氏、5日にはマウリツォ・ポリーニ氏とヴォルフガング・サバリッシュ氏の競演があったようだ。次の公演は私がボンを去ってからになっていた。庭園に据えられたベートーヴェンの顔のオブジェが印象的だ。高さは2mほど。横から見るとごつごつしたセメントの固まりだが、正面から見ると顔の起伏が形成されている。近代アートの表現は多様だ。町はベートーヴェンが溢れている。
 手塚治虫の絶筆に『ルードウィヒ・B』があります。病床で医療器具に囲まれての執筆は、死の直前まで続きました。まだまだ続く作品であることはその内容から推察できます。『ルードウィヒ・B』の主人公は無論ベートーヴェンですが、もう一人いると言って差し支えないでしょう。ヨーゼフ2世の側近、クロイツシュタイン侯爵の息子フランツです。まだフランツが胎内にいる頃、母アントーニアは飼っていた孔雀が耳元で叫び声を上げた為、7ヶ月で陣痛を起こしてしまいます。狂気に駆られた侯爵がその孔雀へ向けた銃声が早産に追い討ちをかけ、アントーニアはわが子を残して世を去ります。孔雀の名前は「ルードウィヒ」。その後少年フランツは傷害事件を起こし父親に勘当され、ウィーンからボンへと身を移します。屈折した幼少期を送った彼は、自分を不遇の目に合わせたルードウィヒを恨むあまり、「ルードウィヒ」という名の者を皆殺しにする計画を立てます。運命のいたずらか、ボンで最初に出会ったルードウィヒがベートーヴェンです。少年ベートーヴェンは鶏小屋にてフランツにステッキで側頭部を殴られ、それが原因で難聴が始まります。フランツはハプスブルク騎士長ルードウィヒ・グロッス公爵や戦場で拾った平民の赤ん坊ユリシーズとの出会いを経て、徐々に人間の心を取り戻します。ベートーヴェンはハイドンやモーツァルトと出会い、その音楽性をぐんぐん高めていきます。ストーリーの詳述はここらで止めておきます。街角でベートーヴェンが口ずさんだシラーの詩に、陰で聞いていたフランツが苦しむシーンが出てきます。壮年期、第九を完成させたベートーヴェンと成長したフランツがどのような結末を迎えるのか。作者の逝去により永遠に閉ざされたままとなりました。
 この作品における音楽の描写は芸術的です。ベートーヴェンの手から紡ぎだされる波濤のように押し寄せ飛び散る音符。平均律クラヴィーアを解説したページには、精緻に組まれた模型がずらりと並び、奇跡的な構築性を保つ同曲の特徴を見事に表現しています。史実半分、虚構半分の世界ですが、ベートーヴェン・ファンのみならず、音楽好きは必ず納得する傑作。未完の続編には想像力をかき立てられますが、やはり手塚先生が書いた結末を読みたい。
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モーツァルトの墓

2006/12/03 01:31
 平成13年12月31日、アニフから一旦ホテルに戻って休憩した後、カウントダウンを控え俄然お祭り気分の旧市街へ再び向かった。ザルツァッハ川周辺は混雑していた。昼間見かけない若者たちもどこからともなく集まってきた。彼らが暗がりの道路に爆竹を投げつけるので、心の準備をしておかなければ驚く。大聖堂横のレジデンツ広場では野外ステージが仮設され、露店が軒を連ねていた。年越しムード一色だ。巨大な大聖堂は774年に創建、12世紀末に後期ロマネスク様式に改築された。眼下の賑々しさとは対照的に神妙な趣を増す。流れるダンスミュージックとの組合せも新鮮だ。モーツァルトが見たら苦笑するだろうと天を仰いだ。ステージ上では有名人か地元の人かわからないが、歌ったり踊ったりとイベントが繰り広げられていた。年越し5分くらい前になると、おもむろに「Y・M・C・A」の曲が流れた。案の定群集は両手で文字を模り大合唱。1分前、周囲は緊張感を帯びてきた。待たずともその時は訪れた。10秒前、「・・・ファーア、ドライ、ツバイ、アイン!」が唱和されるとボルテージは最高潮に達した。幾発もの花火が新年の夜空に打上げられた。カクテル光線にライトアップされた大聖堂の図太い鐘音が、山間に深く神々しく鳴り響いた。近くで見上げる少女の幸福な笑顔が印象的だった。ヨーロッパはこの瞬間、経済の大変革を迎えた。2002年1月1日よりEU加盟各国は一部を除き、統一通貨ユーロの流通を開始した。旧来の個別の通貨は2月末日まで使用可能で、以降はユーロのみに使用が限定される。お釣りは必ずユーロで返すように決められているので、お店の対応は混乱を極めた。眉間にしわを寄せ入念に確認するスーパーの店員さん。10ユーロセント多く釣銭を返してくれたバスの運転手さん。支払いが発生する場所にはしばしば行列が見られた。手にする貨幣はいずれも無垢な輝きを放っていた。
 1月2日昼下がり、ザルツブルクから特急列車を駆ってウィーンへ戻った。年末宿泊したホテルに再チェックした後、モーツァルトが眠るザンクト・マルクス墓地へ出かけた。地下鉄も路面電車も最寄りに適当な駅がなく(実際は近くに駅があるのかもしれない)、少し離れた駅からアウトバーン高架付近の殺伐とした住宅街を縫うように歩いた。雪は見られないがひどい木枯らしが吹いていた。ようやく着いた墓地は人影疎らだった。煉瓦造りの壁は所々剥落し、落ち葉が無作法に敷き積もっていた。
 1791年12月5日、モーツァルトはウィーン市内の自宅にて35歳でこの世を去った。葬儀は結婚式と同じシュテファン寺院で執り行われた。当時の制度と経済的な理由から質素な祭式を余儀なくされた。天候が悪かったこと(後の調査からそうではなかったとも)、墓地までの距離が遠かったことなどから最後までついて来た人は少なかったとされている。実際に訪れると想像に難くない。その影響からか墓地内のどこに埋葬されたか確かな記録が残されていない。後年の研究で間違いないであろう盛り土に墓碑が立てられている。門扉を背に数十メートル歩くと奥のキリスト像にぶつかる。やや手前の左手に「Mozartgrab」と書かれた立て札があった。逸る心を抑え墓の前へと進む。天使の石像が折れた石柱に項垂れ、土台には「MOZART」の文字が刻み込まれていた。天使すらもその死を惜しむという意味だろうか。訪問者が手向けた花もすっかり萎れている。世界的才人の墓にしては寂しい。しかし土の底から温もりに満ちたエネルギーが湧出しているのを感じた。そのエネルギーは地球上の隅々に降り注いでいるようだ。私は愛聴する「ジュピター(交響曲第41番)」を頭の中で奏でた。大学の講義で「無人島にレコードを一枚だけ持っていくとしたら」というテーマで発表する機会があり、この曲を取り上げたことがある。周囲には誰もおらず、一時でもモーツァルトを独占できた満足感を得た。しばらく墓を見守った後、重要な通過点であるこの地を後にした。
 モーツァルトを知るうえで、廉価で入手できるアリゴーニ氏指揮の交響曲全集は貴重です。順番に聞くことで、その成長過程が伺えます。25番が制作の分岐となり、31番で交響曲作家として雄たけびを上げる。31番は「パリ」の副題で有名ですが、演奏旅行中、同伴した母が客死する人生最大の悲しみに見舞われます。しかし楽曲の図抜けた明るさは如何なるものでしょう。一見悲しみは微塵も感じられません。・・・といいたいところですが、私は第一楽章で魂が浮揚する感覚に捉われ涙が落ちます。深い悲愴が一見鮮烈な歓喜を発色するのでしょうか。感情の深奥で喜怒哀楽は同源なのでしょうか。小林秀雄の論評を借りると、疾走する悲しみに涙が追いつけない・・・。猛スピードで駆け抜ける悲しみ。加速する悲しみはやがてリミッタを振り切り喜色を発する。もはや喜怒哀楽は紙一重でしかないことに気づく。このような芸当ができる芸術家がどれほどいるのでしょうか。
 昭和21年12月に小林秀雄が書いた代表作『モオツァルト』。博識が横溢した大論文は批評が文学に成り得ることを知らしめるものです。増してや音楽愛好家ともなれば垂涎の薀蓄が息つく間もなく襲いかかるでしょう。冒頭の一節から、胸が踊ります。
エッケルマンによれば、ゲエテは、モオツァルトに就いて一風変わった考え方をしていたそうである。如何にも美しく、親しみ易く、誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった。幾度か誰かが成功するかも知れぬという様な事さえ考えられぬ。元来がそういう仕組みに出来上がっている音楽だからだ。はっきり言って了えば、人間どもをからかう為に、悪魔が発明した音楽だと言うのである。ゲエテは決して冗談を言う積りではなかった。その証拠には、こういう考え方は、青年時代には出来ぬものだ、と断っている。(エッケルマン『ゲエテとの対話』1829年)

 作家は神童の魅力を、文章で音楽を伝える不可能のぎりぎりのところで戦い、根底では無駄だと承知しながら見事に描ききっています。元来のモーツァルト贔屓ですら、いや、だからこそ、ぐいぐいとその世界に引き上げられます。洗練された文体は一文の無駄もなく、あたかも天才が遺した音楽のようです。共感した箇所を抜粋します。ハイドンとの比較で書かれていますが、前後の文脈から全音楽家との比較と捉えて差し支えないでしょう。
僕はハイドンの音楽がなかなか好きだ。形式の整備整頓、表現の清らかさという点では部類だ。併し、モオツァルトを聞いた後で、ハイドンを聞くと、個性の相違というものを感ずるより、何かしら大切なものが欠けた人間を感ずる。外的な虚飾を平気で楽しんでいる空虚な人の好さと言ったものを感ずる。この感じは恐らく正当ではあるまい。だが、モオツァルトがそういう感じを僕に目覚ますという事は、間違いないことで、彼の音楽にはハイドンの繊細ささえ外的に聞こえる程の驚くべき繊細さが確かにある。心が耳と化して聞き入らねば、ついて行けぬようなニュアンスの細やかさがある。一と度この内的な感覚を呼び覚まされ、魂の揺らぐのを覚えた者は、もうモオツァルトを離れられぬ。
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ケルン大聖堂

2006/11/19 14:50
 平成15年10月8日、この日ケルンへ行ってみることにした。ボン中央駅からケルン中央駅までは所要20分ほどで切符も近距離扱いだ。恥じらいなくガイドブック片手に自動券売機と格闘する。まず駅名リストから行き先を選び、割り当てられた番号を画面に打ち込む。すると片道?往復?子供?などの質問が表示される。それらを選択すると必要金額が表示されるのでコインを投入する。覚えると便利だ。ウィーンでもそうだが、DBは検札がない。皆きちんと切符を買っているのだろうか。窓口で購入すると時刻と番線の案内状を発行してくれるが、券売機で購入すると出てこない。近距離なので案内するまでもないが、どの番線に列車が入ってくるか、プラットホームへ上がり電光板を確認しなければわからない。入鋏機付近には黄色い時刻表が貼ってあるが、どの駅に停車するかまでは書かれていないようだ。慣れていないと面倒で、階段を昇ってすぐに降りていく人を結構見かけた。
 素朴な町並みを抜けると、鉄筋アーケードが見えてきた。2000年に改築されたケルン中央駅は階下にレストランやショッピング街を設ける巨大な駅舎だ。100万人都市にも納得がいく。ボンは地元民で混雑していたが、ケルンは観光客でごった返しているように見えた。駅舎を出て度肝を抜かれた。天蓋を蓋い尽くさんばかりの真っ黒な大聖堂が目に飛び込んできた。もはやこの建物しか視界に入らない。飲み込まれそうな威容に言葉が出ない。1248年に着工し、なんと1880年に完成したゴシック建築の化け物は、南塔と北塔を構え、高さは我らが通天閣を遥かに越える157メートルと計り知れない。尖塔下の聖堂部も、奥行き144メートル、幅86メートル、高さ43.5メートルと半端ではない。近くで見上げると後ろにひっくり返ってしまいそうだ。聖堂内は満足に通行できないほど観光客が溢れていた。ステンドグラスはどれも一区切り単色だと思っていたが、一区切りの中にも濃淡が加えられていた。王や司教をモチーフにした千紫万紅の複雑な幾何学模様は至上の美しさを放っていた。ケルン派の画家シュテファン・ロホナーの祭壇画があり、日本人のガイドさんが解説していたので盗み聞きした。魂は死ぬと生前の罪業に苛まれ7万年の間成仏できないが、何か(忘れてしまった)をすると1万年に短縮されるという当時の説法だった。
 南塔は階段で頂上まで昇られるようになっている。ガイドブックには509段と書かれていた。半ば自棄に登頂を決断する。螺旋状の階段はセメントで舗装されていたが、幅は1メートルほどで降りる人とすれ違う時は避けねばならない。悲鳴を上げながら息を切らすおじさんもいれば、とんとん昇っていく子供もいた。明日は間違いなく筋肉痛だと確信し、途中何度か後悔したが、最後は気力で展望台まで昇った。更に鉄パイプの階段が増設され、上へと伸びていた。最終的な位置は地上130メートルほど。息を弾ませ周囲を眺めた。地平あたりはスモッグではっきりしないが、360度遮るものはない。残り10メートルほどの切っ先を見上げると、装飾は先端に至るまで手を抜かず施されていた。この尖塔を建てるのにどれだけの人が犠牲になっただろう。石材が崩れたり、風に飛ばされたりしたこともあったに違いない。吹き付ける風は温まった体を急速に冷やした。汗が乾燥し、一気に熱が奪われるのを感じた。このままでは風邪を引くと危ぶみすぐに降りた。
 大聖堂周辺にあるパブで地ビール「ケルシュ」を飲む。店のおじさんが「こんにちは」と言ってきた。なぜ日本人だとわかったのだろう。ケルシュはコクの割に飲みやすく、グラス一本がするりと喉を通り抜けた。もとい運動後なので何を飲んでも旨く感じる。このあたりのビール屋は繁盛しているのではないか。ドイツのビールは日本のものに比べ鋭い喉越しと深い香りがある。さすがビールの国だ!
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ヒロシマ

2006/10/22 12:36
 平成15年4月。早くも梅雨入りを疑うような天気が続く最終週。出張で広島を訪れた金曜日も同様だった。迂闊にも傘を持ち歩いていなかった私はずぶぬれで夕刻の町を歩いていた。コンビニで傘を買おうとしたが横川駅前に適当な店を見つけることができず、体で雨を受けながら顧客の社屋との間を往復した。一週間の疲労はスーツに染み込んだ雨とともに重く肩にのしかかった。本来この日のうちに大阪に帰るつもりだった。小学生の頃、修学旅行で平和記念公園と宮島を訪れたが、以来広島を訪れたことは一度もない。翌日仕事が休みということもあり、市内のホテルにチェックインすることにした。戦争を考えるとき、広島ほど我々に訴えかけてくる街はない。幼心に戦争のむごさを植えつけてくれた。あれから58年経た今、世界情勢に当時ほどの大きな変化はないが、相変わらずあちこちで戦禍が絶えない。先般終結したイラク戦争の是非を問う声は多く、我々にも再考の機会をもたらした。世界規模の反戦デモはある種ブームにもなった。反面、戦争を容認する声も少なくない。イラク解放の報道が先行し、戦争の正当性が過大に広まろうとしている。反戦を唱えていた先進国の首脳たちも徐々に静観に転じる。自身、戦争の是非について惑うことはない。しかし意識の底では対岸の火事で済ませている。ヒロシマは何かを教えてくれるはずだ。明朝の空模様が気になった。室内でFMを聞きながら業務をまとめ、雨音を聞きながら眠りに就いた。
 翌朝カーテンを開けると、「平和な」光が室内に射し込んだ。昨日と同じスーツに身を包み、徒歩で紙屋町方面へと向かった。当時士官学校があり幾人もの軍人が闊歩したであろう。心なしか身が引き締まる。広島も久々の快晴に違いない。高く澄んだ空には、未発達の積乱雲が伸びていた。原爆がこの街に落ちた日も快晴だった。快晴だから落とされた。あの日耳を騒がせていた蝉時雨さえ聞かれないが、高湿の熱気は早くも夏を感じさせる。しばらくすると右手に広島市民球場が見えた。球場は原爆ドームに隣接するので良い目印になる。遠い記憶が甦ってきた。道路を挟んで左手にある公園の枝葉から、世界にあまねく知られた錆びた梁が顔を出した。世界遺産「原爆ドーム」が15年前と変わらぬ姿を現した。
 1945年8月6日、原子爆弾は当時広島産業奨励館とよばれたこの建物の上空に炸裂、半径2キロを焼き払い、瞬時に20万人もの命を奪った。世界で最初に実戦で使用された核爆弾だ。ウランを搭載した核には放射能が含まれている。被害は爆風によるだけではない。残留放射能は現在に至ってなお多くの人を苦しめ、死者は述べ35万人に達する。半世紀前この青い空は、鉄をも溶かす4000度の真っ赤な熱線で染められた。この日の空からはそのような情景は想像できない。何百年も前に起きた遠い国の出来事のように感じる。実際は親が生まれた年とそう変わりはない。原爆ドームの惨状から尋常ならざる破壊力が伝わるが、老朽化が著しく、至る所に補修の後が見られた。倒壊状態を維持するのは健常な建物の保存より労苦を要することではないか。爆心地にありながら半世紀以上態勢を留める姿には、大きな使命をもって風雪に耐える精神が感じられる。周囲をぐるりと囲むツツジは、純白と濃淡混じるピンクの花弁を満開に咲き誇らせていた。けが人に巻かれた包帯のような光景が健気だ。隣接して流れる元安川の沿道には大勢の行楽客が行き交い、家族連れが団欒の時を過ごしていた。外国人の姿もちらほら見られ改めてヒロシマの知名度の高さを知る。
 うららかな日の光を照り返す元安川を渡ると「原爆の子の像」がある。石塔の上に子供が折鶴を掲げた高さ数メートルのモニュメントだ。この「子」のモデルとなった佐々木貞子さんは2歳8ヵ月の時被爆し、12歳で急性白血病と診断された。鶴を千羽折ると願いがかなうと信じ、薬の包などを用い不眠不休で鶴を折り続けたが、9ヵ月後亡くなった。像の周りには修学旅行生らが折った千羽鶴がびっしり房を垂れていた。戦後、冷戦が終わってなおも大国は大量破壊兵器の開発に躍起だ。核実験は近年条約の整備などで減少したものの、相変わらず忘れた頃にニュースが飛び込んでくる。戦後間もなく行われたビキニ環礁での水爆実験では日本の漁船第五福竜丸が被爆した。何も知らされなかった近隣の島民にも放射線の災禍が降り注いだ。樹木や草花、動物たちも巻き込まれた。
 ちなみに、米軍による原爆投下と大空襲は国際法で定められた非戦闘員へのジェノサイドに抵触する。日本はサンフランシスコ平和条約にてその賠償請求の一切を放棄したので、米軍の罪は問われずに終わった。連合国主体の戦争裁判なので泣き寝入りを余儀なくされる。日本政府が周辺諸国へ加えた損害は取り返しがつかない。しかしたまったものではないのは国民だ。本土空襲、米軍による沖縄上陸が始まる前に降伏しておけば、どれだけの犠牲を抑えることができたろう。何より原爆は落ちなかった。
 公園の南端には平和記念資料館がある。入場料50円は無料に等しい。館内では原爆の被害状況が冷静に、時に生臭く解説され、惨状がひしひしと伝わる。アメリカが原爆投下に踏み切った理由は3つ。ひとつ目はソビエトが対日参戦を表明し、戦後社会の主導権を握る為に先を越されたくなかったこと。ふたつ目は戦争の長期化による被害を食い止めること。三つ目は原爆の威力を実戦で試したかったこと。当時広島は軍施設が多いにも関わらず、ほぼ無傷で残っていた。標的となる条件がそろっていた。資料館は、我が国がアジアに及ぼした暴挙を忘れてはならないことを強調している。列強からの外圧など政治的に回避困難な事由はあったにせよ、帝国主義は国家運営のバランスを狂わせた。館内は順を追って戦争について考察を深められる流れになっている。戦争を盲目的に否定するのではなく、ありのままの真実を紹介することで閲覧者に判断を委ねている。豊富なデータや資料は、主観を排したすばらしいドキュメントだ。原爆の何千倍もの威力を持つ水爆やミリ単位の精度を誇る巡航ミサイルなど近代兵器の解説もあり、その殺傷力の高さに呆れる。売店では記念品や書籍が陳列されていた。小学生の頃読んだ絵本『怒り地蔵』も積まれていた。爆風を受け、瀕死の状態で水を求める女の子の前に、ぼろぼろになったお地蔵様が現れる。地蔵は女の子の顔に涙を流し、口元を潤してやるが、やがて女の子は力尽きる。地蔵は顔を真っ赤にして人間の愚行を怒ったという話だ。内容は克明に覚えていた。
 しばしばテレビで取り上げられるが、ベトナム戦争時、米軍によって空中散布された枯葉剤によって、多くの奇形が孫の代まで続いている。我が国ではべトちゃんドクちゃんの例が有名だ。米軍は第二次世界大戦の頃既に枯葉剤を準備していた。11月まで戦争が長引けば日本にばらまく計画があったらしい。決して他人事ではない。テレビに映し出された体躯から目をそらしたいのが正直な感想だ。無辜の子供がこのような運命を強いられるのは誰の責任か。五体満足の私は素直に自身の幸運を喜んで良いのか。先のペルシャ湾岸戦争で使用された劣化ウラン弾による放射線障害は、米軍の退役軍人にも襲い掛かる。被害者は相手国だけではない。米政府は何を守るために戦争をしたのか。守りたいものは本当に守られたのか。国益が垣間見えるイラク戦争。疑念は鬱積する。
 資料館を出るとクローバの香りがした。庭園には一面にクローバが咲き誇っていた。小学生の頃毎日遊んだ近所の公園にもクローバが敷かれており、かすかな香りは懐かしい。75年間草木も生えぬといわれたヒロシマ。しかし終戦直後の秋には瓦礫の底から新しい芽が吹き始めた。人々がそんな草木から与えられた勇気は計り知れないという。人間だけの地球ではない。豊かになって一層そのことを忘れてはいまいか。帰路、涙が止まらなかった。青い空、生い茂る緑、人々の笑い声、歴史の大きな傷を乗り越えて現在がある。
 この街が人類の行く末をじっと見守っているように感じた。たった半世紀ほど前、ここでとんでもないことが起きた。我々はそのことを忘れてはならない。なぜそうなってしまったのかを知らなければならない。そして今我々が地球上に生きている意味を改めて考えなければならない。
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